2011年12月30日金曜日

弘前藩主 津軽氏

石田三成公に関しては、徳川の御用学者に依る誹謗中傷により、定かな人物像が結べずにいるのではないだろうか。
幸い、筆者は、父祖が石田氏と近しかったこともあり、徳川史観とは無縁な環境で育った。
その私をして、驚天動地が如く震撼させたのが、朋友石田氏を庇い続けた津軽氏の事跡であった。
津軽氏初代、津軽為信公は、その嫡子、信建と共に、関ヶ原敗戦後、三成公の次男を大坂から己が領地へと向かわせ、その身を守った。然も、津軽氏は、それだけに留まらず、彼の子等(三成公の孫)に知行千石と知行四百石を与え、藩内でも枢要な地位に就けたのである。
これだけでも圧巻なのだが、津軽為信公は、その三男、信枚の正室に、辰姫(石田三成公の娘、然も北の政所が己が養女とした)を選んだのであった。
その後、信枚は二代藩主となったが、徳川家康は新たな婚儀を整え、娘を津軽氏に押し付けた。然し、二代藩主、信枚公は、己が世継に、辰姫の産んだ信義(石田三成公の孫)を選んだ。
誠にあっぱれ、徳川に対し、真っ向勝負を挑んだのであった。
その後、石田三成公の血脈は、今日まで絶えることなく続いた。津軽氏が、杉山氏(石田氏)を庇い続け、重臣として、藩の枢要な地位に留め続けたからであった。
これほどまで亡き友に尽くす津軽氏の姿に、私は、心からの感動を覚えたのである。
合掌。


追記
拙宅の書庫には、津軽氏に関する史料が多々散見される。参考までに、「愚耳舊聴記(津軽為信公に関する書冊)」、「信政公御意之筋聞傳集(津軽信政公に関する書冊)」の写真を掲げる。
合掌。


2011年12月26日月曜日

香川五郎次郎親和公の墓碑






本日、長駆、高知へ出張、香川五郎次郎親和公の墓前に拝礼する機会を得た。
公は、讃岐香川氏の嫡流を継いだ方であった。
合掌。