2015年11月16日月曜日

天晴れ、飯尾彦之丞兼晴の武者ぶり。生駒騒動・後日談。 その二

先に公開した「天晴れ、飯尾彦之丞兼晴の武者ぶり」に収録し切れなかった史料を、その二として、ご紹介申し上げようと思う。
松江藩は、鷹に関する造詣の深い藩であった。為に、代々家老、乙部家に於いても、鷹匠(ようしょう)を家中に抱えることが赦されていた。飯尾兼晴は、その乙部氏に仕えたのである。松江藩に預けられたこと、生駒帯刀にとっては、運の尽きであった。
合掌。


老臣乙部邸に於ける鷹匠の敵討  松江市誌(昭和16年版)所収

昭和十六年に刊行された松江市誌の内、初代直政公の時代が記されているのは、第四章第一節松平直政の項である。その0062-0109頁中、都合二頁(0102-0103頁)を用いて、老臣乙部邸に於ける鷹匠の敵討のことが記されている。
松江藩に於いては、余程、人の心に達する事件だったのであろう。忌まわしいことならば、これほどの頁を割くことはないのだ。飯尾兼晴の壮挙が、当時の人々の心を震わせたのであろう。
因みに、先にご紹介申し上げた「
松江藩祖直政公事蹟」に於いても、五頁に渡って飯尾七太夫兼晴のことが記されている。



此処、讃岐の地では、数冊の侍帳写本が、この仇討ちを伝えるのみで、活字史料等は公開されていないのではなかろうか。
飯尾彦之丞兼晴(飯尾七太夫兼晴)、立派な武士であった。その事績を、松江の史料、そして、歴史に造詣のある先学の著書から、ご紹介申し上げるのは、歴史を学ぶ者の務めであろう。僕は、歴史を学ぶことは弔いであると思っている。




飯屋兼暗雲州松江の仇討 千葉亀雄著「新版日本仇討」所収

千葉亀雄氏は、飯屋兼暗雲州松江の仇討(「新版日本仇討」所収)の末尾で、以下のように記されている。


兼晴の此仇討は何処まで正しい理窟があるのであらう。思ふに総兵衛等の罪状は徒党を組んで国を立退いたのが唯一の題目となって居た。然し一家中の重役十数人家族まで合せて千二百人が一致徒党して領国を見捨てる!そこには又た比の重大な法禁を犯さねばならぬ程、何か人の服することの出来ぬ弱点を、生駒の方にも持って居たのではあるまいか、そして比の仇討の根拠は、其の発表された忠好正邪の史評の外に、解決されぬ秘密と闇黒を永久に残して居るものではあるまいか。


僕は、先の文章を拝読し、まさに然り然り、我が意を得たりと思った。僕も、過日、以下のような拙文を記していたからである。


生駒家家臣団ノ解体 はじめに
天正十五年より寛永十七年に至る(1587-1640年)五十四年間、讃岐の国主を勤めた生駒家は、家中の不始末により改易。第四代当主、生駒高俊は、僅か一万石の堪忍料にて出羽矢島へ転封となった。
この事件(家中侍出入ノ一件)については、生駒記を始めとする諸書(江戸中期以降に成立)に触れられているが、お決まりの御家騒動物の域を脱していない。然るに、幕府の公式記録として著名な徳川実記によれば、幕閣(老中)は、諸書に引用されている生駒帯刀の訴状に、何らの信憑性を見出していないのである。(問題にしていないといった方が正確かもしれない。)数多くの切腹者まで出した処分は、飽く迄、徒党の禁を侵したことにあるというのである(家臣団の半数にも及ぶ侍たちの讃岐立退が、幕府に於て問題とされたのである)。
ここで、生駒家家臣団の先退として知られる侍たちの讃岐立退について考えてみたい。その数、士分の者二百、その家内眷族を併せ二千、亦、属する手代同心足軽千、妻子眷族に至っては三、四千とも伝えられる家臣団の退出が、白昼堂々、讃岐の全ての地より行われた。石崎若狭、前野伊豆を始めとする生駒家政府中枢と生駒家一門の生駒帯刀の間に起こった争いについて、幕府が調停中にである。このことが何を意味するのか定かではないが、結果的には、裁定の決着以前に行われた立退を唯一の処分理由として、生駒家は改易、数多くの家臣団が厳罰に処せられたのである。幕閣の裁きは、いつか騒動の本題を離れ、徒党を組んだこと(大規模な家臣団の讃岐立退)に対して行われたのである。幕府による有無を言わさぬ外様潰しと言えばそれまでだが、幕閣に付け入る隙を与えた斯様な立退が何故行われたのか、詳細に検討する必要がある。
本稿の試みは、家臣団の半数が生駒家に見切りをつけ自ら退出した真意を探る作業である。著者は決して結論を急がない。思考の端緒を掴み取りたいだけである。非命に倒れた数多の人々の冥福を祈る為に。
収録した史料は、幕閣による家中騒動裁定中に起こった生駒家家臣団による大規模な讃岐退出について、その陣容を記したものである。左に退出した侍。右に止まった侍、或は態度を明確にしなかった侍を記録した。
以下、作業の中で気付いた点を幾つか掲げ、本稿の解題とする。
① 大身の侍を中心に立退が行われた。例えば、地方知行を給された家臣の内、五百石を越える侍については、半数を越える者が讃岐を立ち退いている。
② 侍は給知権のみ、土地所有権は百姓に属するものとした豊臣政権以降の近世讃岐に於て、国主若しくは百姓以外に、讃岐阿波出身の家臣たちが中心となって広大な新田を開いた。この自分開の新田は、後に加増の対象となったようである。
③ 知行に新田(自分開)を含む侍は、その殆どが、騒動の折、讃岐に止まっている。
④ 三野氏、尾池氏の知行に占める新田の割合が突出している。従属関係が消滅した旧領地内の百姓を使っての新田開発は不可能な筈だが、如何様にして、かくも大規模な自分開を行ったのであろうか。自らのあらし子(侍の手作り地で働く農業労働者。所替に際して、侍は、あらし子の引率を命じられた。)のみを使って、これほどの開発が出来るとは思われないのだが。
⑤ 生駒氏の讃岐入府時登用された西讃岐の侍の内で勢力の変動が起こったようである。香川氏の分家、河田氏の勢力が衰退し、三野氏が興隆した。
⑥ 二代国主一正の側室、於夏(山下氏)の生んだ子供(生駒左門。他に猪熊氏に嫁いで河内を生み、後、生駒將監の後妻となった娘、山里がいる)や孫(生駒河内)が家老や家老並となった為、山下氏や同氏に繋がる讃岐出身の家臣団の勢力が増した。生駒氏の閨閥を考慮しなくてはならない。生駒帯刀の言動には、三野氏を始めとする讃岐国人領主層の影響を垣間見ることが出来る。(再度の讃岐国人領主層の台頭は、太閤検地、刀狩以降、明確にされた筈の領有権、領知権の区別を不明瞭なものにさせはしなかっただろうか。仮に、百姓層が、再度、中世的な作人になるならば、豊臣政権の志した改革への逆行で、耕作者の安寧には繋がらないのだが。)
⑦ ここに一つの問題がある。生駒氏は、秀吉の直臣であり、最もその心を理解していたのではないかということ。答えてみよう。創業者(初代、二代)に於ては然り。ただ、肥大化した大名家では、宗家が中、下級の家臣として、嘗て倒した領知先の国人領主層(正確には元の国人領主層)を家臣団に多数迎え入れると同様、分不相応の家禄を得た一門衆に於ても、譜代家臣欠如の為、多くの国人を家臣(宗家に対しては陪臣)に抱える。(これは土地政策に関し異なった理念の持ち主を家中に迎えることでもある。)宗家の創業者の逝った後、政府を担う吏僚たち(創業者と共に経営を行った上級家臣団及びその末裔)と一門衆の対立が、国人層出身の家臣団を交え開始される。
⑧ 太閤検地、刀狩の意義を、今一度、確認したい。立退の侍たちは、その真意を最も解していたように思われるのだが。
以上、感懐として書き留めた。
生駒家家臣団の解体は、生駒家改易前より始まった。この解体が何を意味するか、その問を今から始めたい。
平成十年 五月二十二日 著者 記


[補記-試論] 家中侍出入ノ一件
以下、家中侍出入ノ一件(家中騒動)に関する試論を付す。
家中侍の出入の際、多数の家臣が生駒家を立ち退いたことが知られている。これら家臣と残留した家臣、或は態度を明確にしなかった家臣について、その差異を明らかにし、それより抗争の因を探ることは、遠回しではあるが、真実へ近づく一方途であろう。
まず作業の手始めとして、今日まで多数の写本が伝わる生駒家侍帳(分限帳)を繙くことにしよう。これら分限帳には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されている。亦、幾つかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記が施されている。本稿では、ここに焦点を置き、家中侍出入ノ一件について考察を試みる。
筆者は、生駒家奉行職の遺した優れた地方知行文書である『讃州御国中村切高惣帳』を整理検討する中で、侍帳に記された新田に関する記述がここにもあることに気が付いた。そこで両書を詳細につき合わせてみた所、それらの数値は、大旨一致することが分かった。これにヒントを得た筆者は、自分開の新田を持つ生駒家給人たちのリストを作成した。その結果、ある事実に思い当たったのである。自分開の新田を持った多くの讃岐や阿波出身の給人が家中騒動の際に残留したことに。(例外として、高屋少右衛門、河田八郎左衛門のような讃岐出身の侍もいるが。)換言すれば、生駒家を去った給人の殆どは他国の出身で自分開を行わなかった事実に。(自分開を行わないで生駒家を去った国人出身の侍には、高井半十郎がいる。)
このことは、如何に解すれば良いのであろうか。
生駒氏は、讃岐入府に際して、その支配の円滑を期す為、香川氏、香西氏の給人を多数抱えた。佐藤氏、河田氏、三野氏は、その代表的存在である。ここでは、三野氏を取り上げ、考察を進めることとする。
確かに、三野氏は、讃岐の国人領主層の出身であり、香川氏の下、多数の作人を支配していたに違いない。然し、秀吉の登場によって、時代は一変した。日本の侍層は、その支配を根底から覆されたのである。太閤検地、刀狩以降、日本の土地制度は、領有制から領知制に変わった。侍は、その所領の百姓と切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移った。これ以降、侍は自らのあらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)のように、百姓を自由に使うことは出来なくなった。侍が百姓層を使って、自由に新田開発を行うことなど、法制度上、あり得ないのである。然るに、孫之丞は、700石もの自分開を行っている。三野氏は他 にも一族の侍が624石の新田を持っている。この広大な新田は、どのようにして誕生したのであろうか。讃岐では、豊臣政権以降の土地制度改革が徹底していなかったのだろうか。それでは、讃岐国人層出身の侍による新田開発は自由である。一方、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには、自分開など到底不可能である。(引率した自らのあらし子を使って、若干の土地を開くことは可能だったかもしれないが。)生駒家政府は、侍による自分開とは別に、政府主導、百姓層による新田開発も進めており、それは新田悪所改分として地方知行文書に記されている。
生駒家では、寛永期に入って、前野、石崎両家老の指導により、抜本的な政治改革が行われ、入府当時採用された讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が多数更迭され、他国出身者に代えられた。地侍出身者のみによる新田開発、お手盛りの加増では、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては、片手落ちの行政である。亦、侍による自分開は、生駒家の蔵入り増には繋がらず、幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないので、生駒宗家にとっても不都合なのである。
この明確な変革(日本に於ける上よりの革命)を充分認識し得た前野と石崎は、生駒家政府管掌の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行った。然るに、多くの讃岐出身の侍(嘗ての国人領主)や生駒氏一門衆(山下氏を介し、生駒氏一門衆は深く讃岐の地侍と結び付いた。生駒氏の閨閥を考慮する必要がある。)は、豊臣政権以降の変革を理解することなく、己が知行所の百姓を使って自分開を行った。従って、双方の新田開発は、同じ開墾でも、内容を全く異にするものとなった。前野、石崎を始めとする生駒家政府の企図は、百姓を主体とし、その権限を強めるもの。三野氏や一部の侍たちの企図は、侍が嘗てのように領主となり、百姓層を再度中世の作人とするものであった。
半数に及ぶ生駒家家臣団の立退は、その政策を入れられなかった生駒家吏僚たちが、四代当主壱岐守高俊と生駒氏一門衆に見切りをつけたことを物語っている。それにしても、幕府の裁定を待つことが出来なかったのであろうか。これは、結果だが、生駒帯刀の訴状を幕閣は何一つ取り上げなかったのである。幕府はその真意を理解していた。ただ生駒家が外様である為、その隙に付け入ったのである。立退が徒党の禁に触れるという只そのことだけで、余りにも多くの侍たちが死んでいった。前野、石崎両氏を始めとする人々を顕彰したく思った所以である。
再度の国人領主化を目差した讃岐の地侍たちも、その夢を果たすことなく、時代を見抜けなかった故に、余りにも多くの人々を巻き添えにして、讃岐の歴史から去っていった。讃岐武士の終焉である。
今は敵も味方もない。
(こうさかまさのぶ、上坂氏顕彰会)


付記
本稿の執筆にあたっては、双川喜文氏著『天正の土地改革』を随時参照させていただいた。
優れた論稿を記された双川氏に、心からの敬意を表したい。



参考グラフ

合田學著「讃州郡志集成」に収録された家中騒動関係のグラフを引用する。

『先退、残留諸士の各郡に於ける総給知高』
山田郡、南條郡、宇足郡、多度郡、三野郡等で、両者の高が拮抗しているのが分かる。このことからも、家 中騒動が非常に大規模なものであったことが理解出来るであろう。
『地方知行の侍に見る家中騒動に於ける進退』
『地方知行の侍に見る家中騒動における進退2』
『軍役衆各組に於ける先退、残留諸士の知行高』
『非軍役衆各組に於ける先退、残留諸士の知行高』
世に言う「生駒家家臣出入ノ一件」を分析したグラフである。五百石以上の上士層では、半数以上の給人が 生駒家に見切りをつけ、立ち退いたことが分かる。石崎若狭組の結束が目を引く。




先退、残留諸士の各郡に於ける総給知高

地方知行の侍に見る家中騒動における進退

地方知行の侍に見る家中騒動における進退2

軍役衆各組に於ける先退、残留諸士の知行高


非軍役衆各組に於ける先退、残留諸士の知行高


先の拙文は、「史料生駒家家臣団の解体(上坂氏顕彰会史料出版部1999年第二版刊)」より、抽出したものである。
執筆にあたっては、Canonのワープロソフトを使用した。為に、本ブログにアップロードする際、原文のレイアウトが崩れてしまった。大方のご了解を乞う。

上坂眞信著 生駒騒動

http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html



松江藩の鷹に関して記した文献には、以下のものがある。
合掌。

松江藩松平直政時代の鷹書と鷹匠 / 宮内庁書陵部所蔵の鷹書・鷹詞の研究
http://ci.nii.ac.jp/els/110008918719.pdf?id=ART0009875856&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1447644324&cp=

2015年11月4日水曜日

天晴れ、飯尾彦之丞兼晴の武者ぶり。生駒騒動・後日談。

嘗て、生駒騒動と称された家中騒動があった。騒動の結果、讃岐生駒家は改易、数多の家臣が非命に倒れた。家中の政策論争を、己が無能力さ故、公のこととし、幕府に訴え、数え切れないほどの有為の人材の前途を閉ざした生駒帯刀、藩主の一族ということで命を全うした。然し、当時の武士社会に於いては、正義が赦さない。飯尾兼晴の見事な仇討ちに依って、生駒帯刀は絶命した。
この事実を、数多の非命に倒れた生駒家家臣の御霊に、そして、その末裔たちにご報告いたしたく、この拙文を用意した。
以下の画像データは、大日本復讐叢書(
1889年4月15日刊)所収「飯尾兼晴 生駒生種 雲州松江仇討」、及び、松江藩祖直政公事蹟(1916年5月28日刊)から、当該箇所を抽出したものである。

合掌。


参考 

天晴れ、飯尾彦之丞兼晴の武者ぶり。生駒騒動・後日談。 その二 http://kanonji.blogspot.jp/2015_11_15_archive.html 上坂眞信著 「生駒騒動」 
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html

讃州生駒家家臣 飯尾氏 http://iewake.blogspot.jp/2012/07/blog-post_7684.html

                   








2015年2月25日水曜日

猿田彦大神社(猿田彦社)  佐美長神社

猿田彦大神社(猿田彦社)  佐美長神社    志摩国答志郡磯部村恵利原









数日前、何故か、猿田彦大神様のことが気にかかった。僕が、伊勢志摩に出かけたのは、一度きりである。為に、脳裏にイマージュを結ぼうと、「伊勢参宮名所図会全六巻」を紐解いたのであった。集中、第五巻に、猿田彦森、猿田彦大神社の絵図が描かれていた。僕は、この二葉の絵図に、言いようの無い深い感動を覚えた。まさに、震撼したのだ。それから、社の位置を比定しようとした。ところがである。現在の伊勢志摩の地から、この社は消えていたのだ。明治以降、合祀制度の為、数多の社がその姿を消したが、猿田彦大神社があった志摩の恵利原でも、明治になって、佐美長神社と名が変わり、何と、猿田彦神は姿を消し、大歳神のみが祭られていたのである。
僕の猿田彦大神社を訪ねる旅が始まった。
合掌。


追記
他の文献にも当たってみようと、
「志陽略誌」を紐解いてみた。乾の巻に、「
大歳宮 在恵利原村 祭猿田彦大神也 ・・・・・」との記述があった。猿田彦大神社が、確かに、志摩の恵利原の地に存在していたことを伝える、今一つの文献史料に出逢ったのである。嬉しかった。
合掌。





参考
「伊勢参宮名所図会・第五巻」、猿田彦大神社の絵図に先行して収録されている猿田彦森である。
此れから行き着かなくてはならない場所の一つである。
合掌。




補遺 2月26日
土地勘の無い僕ですが、何とか伊勢志摩の地誌を記した書冊に出逢いました。「三國地志」です。本書の巻之八十六、志摩國答志郡の神祠を記した項に、大歳社の名を見付け、その説明文の中に、猿田彦大神の記述を見出しました。
大歳社  神楽殿に猿田彦大神を祀る

嬉しいサプライズでした。
合掌。



補遺 2月28日
昨夜遅く、三重県郷土誌データベースと称する電子データに邂逅致しました。三重大学付属図書館が公開している史料群です。同大学教育学部の前身にあたる三重県師範学校が明治の頃に作成したものだそうです。詳細は、以下の参考をご覧になってくださいませ。
此処に、先日から、僕の脳裏を離れない答志郡磯部村恵利原に御鎮座されている佐美長神社(当該文書成立期の表記)に関する記述がございました。「猿田彦ノ神ヲ祭ル」と確かに記されていたのです。嬉しいサプライズでした。
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佐美長神社
伊雑宮ノ管社ニシテ、同宮ノ西南八町川辺ノ附近ノ山上、磯部村大字恵利原ノ地ニ鎮座。猿田彦ノ神ヲ祭ル。一名穂落ノ宮、高ノ宮トモ称ス。此レ、猿田彦神ノ鼻ノ高キト土地ノ高キニヨリテ、カク云フナリ。伊雑宮ニツギテ、當国ノ名社ナリ。創立ハ、垂仁天皇廿七年秋九月、実ニ一千百有餘年ノ古社ニシテ、神宮神嘗蔡ニ重キ関係ヲ有シ、伊雑宮神田蔡ニ深遠アル神祠ナリ。
(上之郷伊雑宮神田蔡ノ條参照)
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尚、本稿の成立時期ですが、表題には明治四十年八月、そして、データベース左上には答志郡磯部村(M29.3.29志摩郡)と表記されています。
という次第で、この時点に於いては、猿田彦大神は祭られていたのでした。異変が起きたのは、この後ということになります。
合掌。

参考
三重県郷土誌データベース
http://www.lib.mie-u.ac.jp/database/sub_index.html
「三重県郷土誌」は、教育学部の母体のひとつである三重県師範学校の生徒が、1904(明治27)年から1911(明治44)年にか けて、夏季または冬季休暇の課題として提出したものを、地域ごとにまとめて製本したものです。全43冊のうち、1冊は欠本と なっており、現存する和装本42冊を画像データベース化し公開しています。



神社整理(神社合祀・神社廃社) その一


2015年2月16日月曜日

江戸時代のこんぴらさん

神仏分離以前、江戸時代のこんぴらさんです。今とは、佇まいを異にしています。日本全国の寺社が、明治の神仏分離、廃仏毀釈で姿を変えてしまいました。残念なことです。画像、大きくなります。拡大なさってご覧になってみてください。現代とは随分と違うことがお分かりいただけます。全体画像、そして四分割画像(時計の針と反対向き)です。
合掌。






丸亀城の梅

丸亀に出かけました。友を待っている間、久方ぶりに、城内を散策、梅にレンズを向けてみました。
合掌。














2015年2月15日日曜日

仁保ノ平石  (大俎石、小俎石、狛犬石)

今日は、海辺を散策いたしました。江戸後期に成立した「金比羅参詣名所図会第四巻」に収録された仁保の風景を眺めていたのでした。
八葉の写真中、先の三葉は、先ほど撮影した平石です。後の五葉は、江戸期の木版画です。先に全体図、それから、全体を四分した画像を時計の針の廻る順にアップロード致しております。ご高覧くださいませ。
この平石は、満ち潮でも波間に隠れず、舟遊びには絶好の岩場です。
合掌。