2017年9月14日木曜日

仁尾(仁保)の平石







今夏の当地は、とても暑く、そして、雨が降らなかった。七月、八月、この二ヶ月間、僕の頭は、完全に、休暇状態だった。
数日前、久方ぶりに、仁保に出かけ、平石にレンズを向けてみた。カヤックを愉しむ御仁たちの姿が見かけられた。
合掌。

付記
以下の画像は、金比羅参詣名所図会に描かれた仁保の平石、そして、湊。
合掌。



2017年6月5日月曜日

六月五日

今年も亦、六月五日が参りました。忘れもしない、ミッドウエー海戦敗北の日です。僕は、これまで、この日を避けて参りました。何故なら、余りに悲しい戦いの一日だったからです。然し、今、思い至ることがございました。僕等の先達たちは、この敗北に真正面から向き合い、終戦に至るまでの長い時間を戦い続けてきたという事実にです。そして、国力の大半、海外領土の全てを失い、弱小国に陥った日本を、今も尚、守り続けている陸海空自衛隊の方々がおいでるということにです。彼らは、政治の貧困、国民の無知蒙昧から、武人として相応しい処遇もされることなく、今日に至りました。そのような過酷な時間のなかで、祖国の為に働く。何とゆかしい人々の集まりでしょう。僕は、漸くにして、六月五日を悲しんでばかりはいられないことに気付いたのです。まずは、黒船来寇以降、祖国の為に百年戦争を戦って来られた先達たちの英霊に心からの黙祷を捧げたく存じます。そして、敗戦後の日本を過酷な条件下で守り続けて来られ、今も尚支えて下さっている自衛隊の皆様方に心からの感謝を捧げるものです。
この国を守る為、国民は何をしなければならないか、僕たちも、本年六月五日を継起に考えてみようではありませんか。
合掌。

DDG-177 あたご

2017年4月21日金曜日

澤村勘兵衛勝為候、小川江堰の建設者。

きょうは、S姉の文章で、穀雨という言葉を覚えました。丁度、午後から雨でしたので、この言葉、心に残りました。そして、昨日のS姉の文章から、澤村勘兵衛勝為という、江戸初期の武士に興味を覚えました。小川江堰の建設者です。僕は、この平・内藤家中の武士に心惹かれ、幾つか、書冊を紐解いたのでした。以下、記してみたく思います。
最初は、「偉人事蹟(1908年刊)」、「福島県偉人事蹟(1912年刊)」、「東北の秘史逸話(1930年刊)」、「実地踏査記(1939年刊)」といった書籍中に記されていた記事に眼を通したのでした。その後、四家文吉という方が、「贈位されたる偉人沢村勝為(1915年刊)」という書籍を刊行していることに気付きました。これには驚きました。それで、これだと、江戸時代に成立している地誌を探さねばならないなと思ったのでした。ところが、平は、戊辰戦争の折、幕府側に就いた為、古文書、古文献が灰燼に帰していたのでした。文政九年に纏められた「磐城志」も過半が散逸し、澤村氏に関する記述は見出せませんでした。亦、寛文年中に著された「磐城風土記」でも言及されていませんでした。それで、仕方が無いので、今一つの地誌「磐城史料」を講読してみました。本書は、「磐城志」の欠落を補うべく、明治四十五年に刊行されたものです。そして、ここに、僕は、幾ばくかの記述を見出したのです。遠隔の地故、土地勘も無く、基本文献も存じない僕でしたが、何とか澤村勘兵衛勝為候の事跡の梗概を確認することが出来ました。こうした調査、とても興味深く、僕は好きです。
こうした機会を与えてくださったS姉に、心からの感謝を捧げるものです。
合掌。


実地踏査記(1939年刊)


 磐城史料(1912年刊)

  磐城史料(1912年刊)

 磐城史料(1912年刊)

2017年4月6日木曜日

観音寺市志(観音寺市史) 史料篇-1 生駒氏在国時代





合田學著  「観音寺市志(観音寺市史) 史料篇-1 生駒氏在国時代」

過日、私は、讃州十三郡志集成(全十三巻)という、讃岐一国全てを網羅した大部の資料集を編纂した。
その成果を踏まえ、執筆したのが、本書、「観音寺市志(観音寺市史) 史料篇-1 生駒氏在国時代」である。
合掌。

2017年3月6日月曜日

鎌倉幕府滅亡後の、各地に展開していた北条氏勢力の消息を知りたい。そして、顕彰したい。




未知の分野の学習を始めたのだけれど、なかなか、橋頭堡を確保出来ない。でも、絶対に必要な知識なので、どうしても得たい・・・・・。それは、鎌倉幕府滅亡後の、各地に展開していた北条氏勢力の消息である。主従の絆が強かった人々で、鎌倉のみならず、滅亡時には、各地で、数多の人々が戦い、敗れ、自刃した。九州の地で一年有余戦い抜いた規矩高政 糸田貞義らも、そうした人々であった。彼らは、主を代えて生き残ろうとは思わなかった人々である。彼らは、認識者であった。僕は、彼ら、全ての末期が知りたい。そして、顕彰をしたい。
鎌倉幕府、大軍を西に送っていた為、鎌倉が軍事的空白地帯となり、あっという間に、新田氏如きの弱小勢力に、鎌倉の町を席巻されてしまった。これを、備えを怠っていたと、後世の人は言う。果たして、そうであろうか。元寇を期に海外からの国難を意識した政権と、身近の経済を最重点とした武士との乖離は大きかったのである。このことを理解せずして、北条氏を論じても、仕方が無い。僕流に記せば、新田氏は、日本人としてはやってはいけない謀反を起こしたのであった。ただ、それだけである。英雄扱いすべき武将ではない。
僕は、日本は確かに神国だと思う。何故なら、絶対絶命の窮地に神風が吹き、夥しい侵略軍の艦船と将兵を海に屠ってくれたからである。ただ、この時の鎌倉幕府、特に、執権の北条氏は無能では無かった。現今の政府などと違い、専守防衛などという戯言を信じない。幕府は、日本侵略の敵前線基地である朝鮮半島への先制攻撃をも考えていた。然し、当時の造艦能力が、宋の技術を継承した元と比べ、大人と赤子ほどの違いがあり、制海権の確保が出来ないことが分かった為、断念したのであった。陸戦に於いても、そうである。飛鳥時代の豪族連合の寄せ集め軍勢と、元寇時の日本の侍たちの軍勢は、さほどの違いが無かった。その非力を認識した幕府は、新たな軍制を布いた。当然、武士各自の負担は増える訳である。為政者は次の有事を考え、一般武士は喉下を過ぎた危機を忘れる。そして、それが不満となり、鎌倉幕府を倒すこととなった。
以後の歴史を紐解けば、外敵の存在などという意識は吹き飛び、南朝だ、北朝だということになる。折角の覚醒するチャンスを逃し、日本は、児戯に類した政治過程へと向かう。そして、再度の黒船が出現するまで、愚かな眠りに就くのである。
とても、残念なことだと思う。
合掌。

2017年3月4日土曜日

規矩高政 (肥後守護)


僕は、規矩高政(肥後守護)、この人のことが気に懸かります。北条氏一門、金沢氏の一族です。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の時代を、善悪の立場から見る歴史感が蔓延してしまった吾が祖国、残念なことです。元寇という外圧があって、他国からの侵略という脅威を脳裏に意識した人々と、己が立身、己が所領にしか感心が及ばぬ者たちとの懸隔は大きかったのです。ここを見ずに語る歴史など、世迷いごとです。いい加減、この辺り、大人にならないと、日本は、この世界で生きていけないかと思います。
歴史教科書に関しての煩瑣な注文記事が散見されますが、僕に言わせれば、壬申の乱、天武天皇、蝦夷を含む東北史、そして、鎌倉幕府(特に、北条氏)の再評価こそ、肝要かと思うのです。いや、焦眉の課題とも言えます。
合掌。



追記
吾が師、竹山道雄先生は、亦、違った角度から、違った時代を論じられていています。
以下、引用致します。

合掌。

高松の栗林公園は大名の庭で、自然と人工をあわせて保存手入れもよく、岡山の後楽園とはくらべものにならないほど立派である。
どの角度から見てもあたらしく整った景色があらわれてくる池をめぐりながら、こんなことを考えた。
徳川時代の文化の担い手は、武士階級だった。ことに大名だった。その文化的表現は、城郭や庭園、きびしい克己抑制の道徳と作法、隠者的な文人趣味の観照生活、能、墨絵、古典的な詩文などだった。武士階級は、プラトンが要求したように、感覚的な現世的な芸術をいやしめた。それは、いわゆる人間味を排し禁じた。
武士は上にあって、noblesse oblige-高貴なる者の義務をもっていた。ところが、町人は下にあってどうせ下賎な者としてこの義務を免ぜられ、頭をもたげないかぎり何をしても大目に見られた。この制約の中で人間的表現をゆるされた。だから、それはゆたかな感覚性をもったものではあったが、ともすると歪んだ放肆なものとなった。吉原が町人文化の象徴だった。
われわれは中学校以来、徳川時代の文化の担い手は町人であったと教わり、徳川文化は吉原くさいと思っていたが、これはまちがいであるらしい。町人文化の方が代表と思われるようになったのは、町人文化の方が現代の文化の概念に親近性があるからである。浮世絵は西洋人が珍重し、西鶴は自然主義を思わせる。武士文化には現代の好みにあうような人間味がなかった。
町人文化は日蔭の花として、疚しい良心をもちながら咲いた。その限られた制約の中ではなはだ人間的だった。あまり好ましからぬ意味でも人間的だった。しかし、当時にあっては、これは表面の文化ではなかった。
徳川時代は貴族趣味の時代だった。現代はこれを白眼視して、むしろ当時にあっては余計者が作ったものを、これのみが当時の文化であったと認めているのだろう。
現代になって、デモクラシーと共に、武士文化の系統は忘れられ、棄てられ、破壊された。それに反して、町人文化の系統が一椴化して、これが現代の大衆文化の様式の基礎になった。
その感覚至上主義、公共性の欠如、責任ある主体的人格の欠如、克己抑制のなさ、無形無名のうごき方などは、こういう歴史的背景から説明される部分が大きいのであろう。
歴史のあとをたずねて、昔を再現して思いうかべて見ると、いかに近代日本が大変化をとげたかになどろかされるのである。

(竹山道雄著「四国にて」より、一分引用)

2017年3月2日木曜日

桜乱舞流 祖父の歌




桜乱舞流 祖父の歌
https://www.youtube.com/watch?v=goXS_NVNPms


近年の中国・南朝鮮の暴言は度を越えています。日本じゃなかったら、とっくに宣戦布告です。それほどの愚行を日々行って止まない中国人・南朝鮮人に対し、日本の若者たち、桜乱舞流が音楽を用い、立ちはだかりました。天晴れな行為です。作品を作る熱、公開する勇、誰もが出来ることでは無い。心からの敬意を表します。
合掌。

2017年3月1日水曜日

Largo




バッハのBWV526の第二楽章Largoが好きです。Helmut Walchaの演奏で、聴き親しんで参りました。ビデオの、14:46辺りから、Largoは始まります。

https://www.youtube.com/watch?v=gCdHGKvJ3iY

一昨日の朝だったかしら、夢の中でLargoが聴こえてきて、何とも幸せな気分で眼を覚ましたのでした。
合掌。

2017年2月28日火曜日

僕は、大言壮語、或いは、蛮勇、これを退ける立場に立つ。






1936年2月27日、所謂、二二六事件の翌日です。この日から、青年将校たちの描いたシナリオと異なり、日本は、凄まじいまでの暗転を始めました。目先の敵を倒したものの、遥かに大きな敵が姿を現したのです。クーデターの先を見据えることが出来なかった若き戦闘者たちの限界です。結果、軍民を問わず、日本社会のありとあらゆる場所で、人事の更迭、或いは、異動が行われたのでした。これによって、数多の有為の人材が左遷されました。後任の者たちでは、中国大陸での戦闘の収束は果たせず、亦、対米講和の道も失われました。

こうした歴史を思うに連れ、僕は、大言壮語、或いは、蛮勇、これを退ける立場に立つことにしたのです。
合掌。

2017年1月29日日曜日

軍艦平戸

軍艦平戸進水式紀念(株式会社川崎造船所)


軍艦平戸(大日本軍艦写真帖


少し前の日本製ワイングラスを取り出そうと、古い食器棚を開けたら、軍艦平戸進水式記念の杯が眼に留まりました。それで、写真を撮りました。株式会社川崎造船所が準備されたもののようです。
合掌。

2017年1月25日水曜日

敗者イコール悪者、この考えは間違っている。

長い長い間、課題とし、果たしていないことがある。その一つが、海軍戦闘機搭乗員(零式艦上戦闘機搭乗員)だった亡き叔父が駐留していたスラベシ(セレベス)島ケンダリーの旧帝国海軍航空基地を訪ねる旅である。
叔父たちの部隊は、此処からニューギニア方面へ前進、米軍と真っ向勝負を続けたのである。
日本は、戦に負けこそしたが、長きに渡り、欧米列強と互角以上に戦った。実に、良く戦い抜いた。世界は、全て欧米の植民地、今、吼えている民族は、皆、鎖につながれていたのだ。そうした中で、孤軍奮闘、己が誇りを守ろうとしたのである。実に立派ではないか。末裔である私たちが卑下することは何一つ無い。国家が掲げた理念、或いは当時の若者たちが抱いた理想が間違っていた分けではないのである。敗者イコール悪者という歴史観を、現在の私たちが受け入れては、先人たちの苦労が無になってしまう。
この辺り、しっかりと考え、先達たちを顕彰しなくてはならない。靖国のお宮に対して、当時、国家の体も成さず独立した民族としての責任も持たなかった輩たちの口出しを赦してはならない。立派な父祖を持った日本人として、私たちは、その気概を大事にしよう。
写真、空母から発艦前の零式艦上戦闘機、日本海軍機の攻撃を受け炎上中の英国海軍艦艇(空母ハーミーズ重巡コーンウォール)。
掲載画像は、全て、拙宅所蔵の写真を電子データ化したもの。
合掌。




2017年1月22日日曜日

鳩八幡の社 (岡本の八幡社)


この時に鳩あり、軍の陣の上に翔る

先の文章は、「陸奥話記(陸奥物語)」に於いて、厨川合戦の模様を記したものである。ここにも、鳩が登場する。八幡社と鳩、源氏と鳩の繋がりを如実に感じる一文である。近在に鳩八幡の社がご鎮座されていることもあり、感慨深く読んだのであった。
合掌。

陸奥話記(群書類従・合戦部所収)

2017年1月14日土曜日

冬を愉しみましょう。





随分と気温が下がって参りました。奥山へと向う林道のゲートは、十一月で、閉ざされました。そこそこの山の頂へ向かうには、もはや、ショートカットは無く、旧来の登山口からの正攻法しかございません。ただ、これだと、登山口四時の出発でも、山頂到達は昼を過ぎます。為に、宿泊用の装備も必要です。亦、それなりに歩かねばなりません。長駆の歩きが駄目なら、近場の湿原等を散策するのも一興かと思います。冬を愉しみましょう。氷の世界が好きな友は、きっと、氷瀑登りに夢中だろうなあ・・・・・。
合掌。