2017年3月6日月曜日

鎌倉幕府滅亡後の、各地に展開していた北条氏勢力の消息を知りたい。そして、顕彰したい。




未知の分野の学習を始めたのだけれど、なかなか、橋頭堡を確保出来ない。でも、絶対に必要な知識なので、どうしても得たい・・・・・。それは、鎌倉幕府滅亡後の、各地に展開していた北条氏勢力の消息である。主従の絆が強かった人々で、鎌倉のみならず、滅亡時には、各地で、数多の人々が戦い、敗れ、自刃した。九州の地で一年有余戦い抜いた規矩高政 糸田貞義らも、そうした人々であった。彼らは、主を代えて生き残ろうとは思わなかった人々である。彼らは、認識者であった。僕は、彼ら、全ての末期が知りたい。そして、顕彰をしたい。
鎌倉幕府、大軍を西に送っていた為、鎌倉が軍事的空白地帯となり、あっという間に、新田氏如きの弱小勢力に、鎌倉の町を席巻されてしまった。これを、備えを怠っていたと、後世の人は言う。果たして、そうであろうか。元寇を期に海外からの国難を意識した政権と、身近の経済を最重点とした武士との乖離は大きかったのである。このことを理解せずして、北条氏を論じても、仕方が無い。僕流に記せば、新田氏は、日本人としてはやってはいけない謀反を起こしたのであった。ただ、それだけである。英雄扱いすべき武将ではない。
僕は、日本は確かに神国だと思う。何故なら、絶対絶命の窮地に神風が吹き、夥しい侵略軍の艦船と将兵を海に屠ってくれたからである。ただ、この時の鎌倉幕府、特に、執権の北条氏は無能では無かった。現今の政府などと違い、専守防衛などという戯言を信じない。幕府は、日本侵略の敵前線基地である朝鮮半島への先制攻撃をも考えていた。然し、当時の造艦能力が、宋の技術を継承した元と比べ、大人と赤子ほどの違いがあり、制海権の確保が出来ないことが分かった為、断念したのであった。陸戦に於いても、そうである。飛鳥時代の豪族連合の寄せ集め軍勢と、元寇時の日本の侍たちの軍勢は、さほどの違いが無かった。その非力を認識した幕府は、新たな軍制を布いた。当然、武士各自の負担は増える訳である。為政者は次の有事を考え、一般武士は喉下を過ぎた危機を忘れる。そして、それが不満となり、鎌倉幕府を倒すこととなった。
以後の歴史を紐解けば、外敵の存在などという意識は吹き飛び、南朝だ、北朝だということになる。折角の覚醒するチャンスを逃し、日本は、児戯に類した政治過程へと向かう。そして、再度の黒船が出現するまで、愚かな眠りに就くのである。
とても、残念なことだと思う。
合掌。

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