2016年4月5日火曜日

神社整理(神社合祀・神社廃社) その一

昭和十七年に刊行された「神社局時代を語る懇談会速記」なる書冊を紐解いてみました。書冊中、神社の合併なる章がございました。読み進めて行く内、僕は言葉を失いました。こんないい加減な政策立案でもって、数多の社を破壊、日本人の心を蹂躙したのかと思うと、怒り心頭です。然し、この弁士は、平然と何事も無かったかのような語り口です。何の責任も感じていません。敢えて記せば、新政府官僚の点数稼ぎということです。
こんなことで、志摩の地に御鎮座されていた猿田彦大神社も消されてしまったのです。残念で堪りません。
自ら保守と任じる人には、是非とも知っておいていただきたい歴史の闇です。
合掌。








昭和七年に刊行された久留米市誌上巻から、久留米市の実例を引用いたします。画像三葉です。世に廃寺という言葉は聴きますが、廃社という表現が、此処で使われています。合併だけじゃなく、廃社の処置により、神様が消されているのです。驚くべきことが行われていたのです。
官僚が、新政府内で目立つ手柄を立てたいと思い付き、一声吼えたら、日本中の木っ端役人が飛び付き、遠吠えの大合唱。結果、夥しい社が消されてしまったのでした。明治新政府のこの政策は、日本人の精神世界を破壊したといっても、過言ではないでしょう。
合掌。






付記一
源平の戦、承久の変、南北朝の戦等々による戦勝者の敗者領有地への進駐、そして、太閤検地刀狩に伴い鉢植え武士化された武士団の全国規模での移動により、開発領主とされる人々が、その故地(本貫地)に住まいし続けることが困難な時代になりました。為に、勝者の移動のみならず、敗者も、亦、動いたのでした。それが、つい最近までの日本の歴史でした。
こうした日本に於いて、近在に、ご鎮座される神様に想いを馳せても、なかなか、歴史を辿れないのではないでしょうか。特に、明治の神社整理(神社合祀・神社廃社)では、神様そのものまで、数多、消されてしまいましたので、時空間を辿る術も、過半は閉ざされてしまっているのでした。
昨日でしたか、友人が、白髪神社に関して、記されていました。白髪神社については、僕も、赤松氏調査の為、中世播磨の古文書を紐解く際、出逢っています。旧来の僕ならば、当該地域の地誌の類から、その社記等を探索するのですが、今回は、新撰姓氏録を紐解いてみました。
合掌。


付記二
先に、上層階級である開発領主(武士)の本貫地からの移動について記しました。父祖の故地から離れ、氏の神からも遠ざかってしまったのでした。それに対し、百姓層は、豊臣政権から土地所有を認められた代わりに移動を禁じられました。この数百年、近在の神祠に奉仕したのは、彼らだったのでしょう。その彼らが崇めた神祠が、明治政府の官僚の無茶な政策により、破壊されたのでした。現代社会の人倫崩壊、社会秩序瓦解の遠因は、この辺りにあるかと想うのです。同時に、たった一度の敗戦と占領軍の検閲で、此処までも奈落してしまった日本社会、余りにも脆弱でした。内なる支えを失った侭の人々を、明治政府の強権が引きずった結果ではなかったのかとさえ思うようになりました。神社整理(神社合祀・神社廃社)の影響は、大きいです。
合掌。


参考
猿田彦大神社(猿田彦社)  佐美長神社  志摩国答志郡磯部村恵利原

2016年4月3日日曜日

琴弾山の高良社

金毘羅参詣名所図会を紐解いていて、琴弾山山頂に、高良の社が描かれていることに気が付いた。琴弾宮本社の左である。現在、境内社としてある位置とは全く異なるし、社殿の規模も違う。この事実を、お伝え致したく、稿を準備した。
因みに、倉富了一著「高良山物語」では、筑後の高良社は、玉垂宮、或いは、琴弾宮と称されていたと記されている。
然らば、八幡宮勧請以前、当地の琴弾山には、高良社が、既に、ご鎮座されていたのだろうか。
合掌。


金毘羅参詣名所図会

金毘羅参詣名所図会

金毘羅参詣名所図会

金毘羅参詣名所図会

倉富了一著「高良山物語」


参考
元来、縁起は、体制固めが終わった頃に成立する。だから、以後は、そうなのだろうけれど、以前がそれであったとは限らないと思う。
絵縁起に描かれている琴弾山山上、縁起成立以前を探る方途は無いものだろうか。高良の社のことが気に懸かる。
合掌。