2012年2月6日月曜日

時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。

大西上野守(大西上野介)は、阿波を離れ、上坂丹波守の庇護を受け、晩年を観音寺で過ごしていた。

過日、阿波の友人から、上坂氏と大西氏の親交を記す文書がある旨、教示を受けた。当該文書は、「三好町史 第二章・中世の三好町 第四節・戦国時代の三好町 五・蜂須賀氏の入部と大西氏」中に記されていた。興味深い記述なので、以下、引用する。
阿波の友、そして、町史の著者、刊行者に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。


ところで、三好郡地方の状況はどうであったのであろうか阿波国全体の平地と同じく、豪族という豪族はすべて崩壊していた。長宗我部元親の下で三好郡を支配して大西上野守頼包は、すでに井内谷隠棲して静かに余生を送るという姿が問題になるとは思えなかった。ところが土佐兵が土佐へ引き揚げた後には、三好郡各地へ隠住んでいた上野守遺臣たちが続々と井内谷の上野守のもとへ集まって来た。あたかも祖谷山や仁宇谷の土豪たちが蜂須賀氏に対し激しく抵抗してる時であった。蜂須賀氏は使者を井内谷の上野守へ遺し、蜂須賀へ協力を依頼し、一万石を支給しようと申しでた。上野守にても、この大きな時代の流れにさからうことの不可能を知っていたのでこの使者を丁重に迎え服従するほかはなかった。使著は、上野守が三好郡地方で極めて大きなを持っているとを察知し、いったんは領地を召しあげたのであるが、三好郡地方で一万石を与えることを約束したである。(漆川大西系図他)
ところが、やがて池田城が修築れ、阿波城のつとして重臣牛田掃部尉一長が城番として入城し、前述のように、祖谷山などを除く他の地方では豪族の抵抗もなく支配が行われる通しが立って来た。こうして上野守立場は緻妙なものとなって来た。やがて蜂須賀氏から一万石の約束であったが、改めて三〇〇〇石で召し抱えたという申入れがあった。上野守は、家臣たちをそれぞれの本拠に帰し、自も三〇〇〇石を辞して牢人した。
上野守はやがて讃岐坂本城(讃岐観音寺城)に高阪丹波守(上坂丹波守を頼りここで生涯を終わることになった。上野は行年四三歳。時に天正十八年(一五九〇)七月九日のことだったという。その墓も、琴騨公園(観音寺十王堂跡地、神仏分離後、琴弾八幡宮境内の改造で、その存在さえ不明になった。 (192ー193頁より、引用)


漆川大西系図
天正十三阿波領地之時大西上野御尋有知行壱萬石被下筈、在板野勝瑞村其後背蓬庵公心意牢浪而立寄讃州観音寺阪本城主高阪丹波守上坂丹波守)終生涯」(199頁より、引用)


補遺

先述の友人の案内で、大西系図の一本を見る機会を得た。其処にも、以下のような記述があった。
「牢浪而寄立讃州観音寺坂本城主高坂丹波守(上坂丹波守)」


元禄期に記された観音寺古地図より


元禄期に記された観音寺古地図より


付記
観音寺城は、別名、高丸城とも呼ばれていた。城址は、観音寺市殿町にある。尚、城址及び城主名が記された元禄時代の観音寺古地図が今日まで伝わっている。古地図中、「太閤様御與力 上坂丹波守 古城 今田地也 酒屋町ノ内 元和年中御亡」の記載がある。
合掌。


追記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。  
http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。 
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
上坂氏については、以下のURLを参照されたい。
http://iewake.blogspot.jp/2012/06/blog-post_7627.html
合掌。




増補
昨日、池田町史上巻(173-174頁)を見る機会を得た。阿波の友人(大西氏末裔)に感謝する次第である。
以下、当該箇所をアップロードする。本書刊行者、執筆者の方々に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。


池田地方(三好郡地方)は、かつて、白地城大西氏に支配され、各地には大西一族が勢力を張り(前述の池田の宗安、井川の田野、昼間の片山等)、地侍、小領主在地支配体制ができあがっていた。ところが、長宗我部氏の大西侵入は、この古い支配勢力を一掃させてしまったのである。
元親軍が土佐へ退いた後の一種の空白状態について、その社会状況をうかがう事のできる史料は何もないが、井之内谷に隠せいしていた大西上野介の存在が大きく浮かびあがったことは確かであろう。各地に散らばっていた大西一族は井内谷へ集まって来たであろう。蜂須賀氏入国当初、支配勢力がもとのまま残った祖谷地方をはじめ剣山周辺の山分では、蜂須賀氏に対する激しい抵抗が起こった。大西氏の存在に蜂須賀氏が大いに気をつかったであろうことは十分想像される。
元親の讃岐平定後の上野介の動静は、「南海通記」「元親記」「長元記」等にも記されていないのは、前述のように、井内谷に隠せいしたためであろう。『阿波志』に「元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居住す。瑞雲公采地を賜ふ。辞して讃岐室本城(観音寺城)に至り、高阪氏(上坂氏)方に老す」とある。結局、蜂須賀氏から給地を賜ったが、やがて辞退し、讃岐の高阪氏(上坂氏)の食客となったというのであるが、辞退して牢人となった理由などには触れられていない。『阿波志』の編者が藩主をはばかって略したのであろう。
漆川大西系図に
天正十三年蓬庵公阿波国御領地之時、大西上野御尋あり、知行壱万石下さる筈で、板野郡勝瑞村に在り。其の後、蓬庵公の心意にそむき、牢浪して、讃州観音寺阪本城主(観音寺城主)高阪丹波守(上坂丹波守)に立寄り生涯を終る
と記されている。
山城谷大野系図には
蓬庵公御討人の後、上野御尋ねにて召出され、高三千石拝領。その後不足申立て御国を立退云々。高阪丹波守(上坂丹波守)へ便り、終に此所にて卒す。
とある。
大野素姓記にもこれに似た記事があるが、上野介の勢力の大きなことを察した蜂須賀氏は、一万石を給する約束で、長年の城下であった勝瑞に移し、待命の後三千石を給することにしたのであろう。阿波藩の初期の動揺が静まったとき、約束の一万石を三千石に減じたことに対して、上野介は謀抜するほどの力はなく、不満の気持を牢人することで表明する他なかったのであろう。
上野介の死亡は天正一八年七月九日、年四三歳といわれ、その墓は高阪氏(上坂氏)の墓地(観音寺十王堂内)にあったと伝えられる。その後、琴弾公園の整備によって所在不明になったということである(神仏分離後、琴弾八幡宮の施設が、山上のみならず山麓にも建ち、武士団の墓所は荒廃した)

付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。


参考
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html