2013年7月4日木曜日

長法寺 観音寺新左衛門

先ほど、観音寺新左衛門の菩提寺と伝えられる長法寺について、以下の記述に遭遇した。失念してはならぬので、記録の意味も込め、以下、アップロードする。
尚、本史料は、廣江清氏の遺稿とのことである。遠隔地に居住している為、今日まで、寡聞にして存じなかった。
合掌。


http://www4.ocn.ne.jp/~ja5km/cyusei/tyusei_004.htm#3禅寺

以下の文章と画像は、上記URLより、拝借したものである。
記してお礼を申し上げる。
合掌。




長宝寺長法寺は、「城主観音寺新左衛門菩提のため地下より建立」とあるが、同寺の寺領は、「観音寺新左衛門殿分」とあるので、自身が菩提寺として建立したものが誤り伝えられたものである。



付記
上記引用文中の括弧内赤文字、及び画像内赤矢印は、ブログ筆記者が記したものです。
合掌。



参考 観音寺氏(観音寺香川氏)関係拙稿一覧


讃岐・観音寺城、土佐・鹿持川城
文書から見る観音寺香川氏の事跡 一
文書から見る観音寺香川氏の事跡 ニ
長宗我部地検帳 幡多郡入野郷鹿持川村

2013年3月20日水曜日

植村屋さんのシュークリーム

昼前に同期の元祖ぶー君がやって来た。庭仕事をしていた家人と彼がお喋りしている間に、外出の準備をした。当初、阿波へ向かう予定だった。然し、雨が止まないので、財田の32号線に出たところで行き先を変更、丸亀に向かった。途中、昼食を摂っていなかった私は、国道沿いの店で、とんかつ定食をいただいた。丸亀駅前の駐車場に車を停めてから、私たちは久方ぶりに丸亀の町を散策した。中学と高校、六年間を過ごした懐かしい場所である。歩行中、今度は元祖ぶー君がお腹が空いたと言い出した。それで、きらくに入り、うまいぶんと餃子を注文した。メリエンダであった。此処で、珍道中の二人は宇多津のアルペンに向かった。元祖ぶー君が登山用のジャケットを買った。次は丸亀のトイザラス、今度は私がヘリコプターを購入した。


その後、多度津の歴史資料館にお邪魔、そして、仁尾の植村屋さんを訪ね、シュークリームをゲットした。


拙宅に戻り、元祖ぶー君には、家人が作った苔盆をプレゼントした。良く食べ良く遊んだ一日が終わった。彼とは四十六年の付き合いである。嫁より古い。不思議な縁である。古き良き友に、ただただ感謝。
合掌。

2013年2月15日金曜日

定点観測ポイント 2013年2月14日

久方ぶりに、定点観測ポイントへ参りました。お目当ての艦は通りませんでしたが、散策を愉しみました。
合掌。



2013年2月11日月曜日

二月十一日 紀元節の歌

紀元節の歌

雲にそびゆる 高千穂の 
高根おろしに 草も木も 
なびきふしけん 大御代を 
仰ぐ今日こそ 楽しけれ

海原なせる 埴安の 
池の面より なおひろき 
恵みの波に 浴みし世を 
仰ぐ今日こそ 楽しけれ

天津日嗣の 高みくら 
千代万代に 動きなき 
もとい定めし そのかみを 
仰ぐ今日こそ 楽しけれ

空に輝く 日の本の 
万の国に たぐいなき 
国のみはしら たてし世を 
仰ぐ今日こそ 楽しけれ 

2013年1月28日月曜日

ドルメン創刊号






早朝から隣県へ出張、所用を終え蜻蛉帰りした私は、行き付けの骨董屋に寄った。塗り物(輪島)を見た後、和本の出物はないかと探した処、一冊の書冊が眼に映った。お目当ての和本ではなかったが、ドルメンの創刊号があったのである。
ドルメンは、東京の岡書院が、昭和七年四月から刊行を始めた「人類學、考古學、民俗學並に其姉妹科學にたづさはる諸學究の極く寛いだ爐邊叢談誌」である。執筆者には、あの花祭の著者、早川孝太郎もいた。此れは、良い邂逅、良い買い物であった。
因みに、本書の法量は、縦22cm、横14.8cmである。
合掌。

追記
巻頭論文「長安の春」の著者、杜邨生は、石田幹之助氏(当時、東洋文庫主任)の筆名である。
合掌。

補遺
長安の春(本書第一頁)右に付された冊子刊行の辞を以下に引用する。
合掌。
ドルメン」は人類學、考古學、民俗學並に其姉妹科學にたづさはる諸學究の極く寛いだ爐邊叢談誌である。
其処には黨心偏念なく、靄然たる歓談漫語の裡に智識の交詢が自ら行はれ、和やかにして然かも豊かなる、斯學界唯一の公機たらしめん事を企圖する。
されば一方本誌は斯學界消息の調査報導には特に多くの力を注ぐであらう。従って斯學界の刊行物は固より、更に斯學方面の出版界消息の報導も亦本誌の使命とする所である。

2013年1月10日木曜日

尾崎登喜雄氏著「私本長宗我部興亡記」



尾崎登喜雄氏著「私本長宗我部興亡記」を読んでいる。残すところ数十頁となった。史料以外で、これほど大部の長宗我部氏関係の書冊を紐解くのは初めてのことである。香川氏に関する記事に聊か首を傾げたくなる部分があったが、高松氏、金子氏に注目、其の事跡を顕彰なさったこと等、瞠目に値する。亦、長宗我部氏改易後の家臣団の消息等、学ばせていただくこと多々である。
本書は、今後、四国の中世から近世を紐解く格好の手引書となるのではないだろうか。
尾崎氏のお仕事に心からの敬意を表するものである。
合掌。

追記
先ほど、読了。良書、要保存。私は、巻尾に、そう記した。
合掌。


参考
「長元物語」に見る観音寺香川氏
香川五郎次郎親和公の墓碑
鹿持川村
長宗我部地検帳 幡多郡入野郷鹿持川村
長宗我部地検帳を紐解いていたせいか、国吉城へ・・・。
文書から見る観音寺香川氏の事跡 ニ
文書から見る観音寺香川氏の事跡 一
讃岐・観音寺城、土佐・鹿持川城

2012年12月18日火曜日

田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項

田村左源太氏が著した「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項を、画像データ(一部テキスト)にて、アップロードする。
本書は、昭和十二年八月二十五日、徳島県三好郡佐馬地村大字白地字本名321在住の田村左源太氏が執筆、ご本人自ら刊行されたものである。
優れた先達の研究に、心からの敬意を表するものである。
合掌。


天正十一年讃岐平定後上野守の動静に就ては元記、元親記南海治乱記等に何等の記事がない。唯阿波志に元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居任す、瑞雲公菜地を賜ふ。辞して讃岐室本城に至り、高阪上坂氏方にとあるのみ。元親の阿讃征討には懐刀として活動したる上野守も其後は極めて淋しくあつた。に人の一生ほど前知せられぬものはない。大西系図に「天正十三年蓬公阿波御領知之大西上野御尋有知行壹萬石被、在板野郡勝瑞村、後背蓬公之心意、浪而立寄讃州観音寺阪本城主高阪丹波守上坂丹波守生涯」とあり。山城谷大野系図には「蓬公御入之後上野御尋ニテ被召出、高三千拝領其後不足申御国ヲ立退云々、阪丹波守上坂丹波守へ便り終ニ此所ニテ卒」とあり。大野素姓記には「家政公當御入士ノ内ニテハ上野ヲ一番ニ召サレ云々、御へ不足出来退云々、讃州和田シテ、名主ヨリ家政公へ注進シテ、生駒讃岐守殿へ御頼成サレ和田ニテ討取、當國へ首ヲバ送ラル云々」とる。何れも多少の相違はあるが、蜂須賀対し不平で浪人せしといふ点は一致する。之を考察するに知行萬石の筈で領を去て、待命の後三千石拝領した、之が蜂須賀家へ不出来ちて浪人となりたる原因相違ない。何故に斯かる喰違出来たか想像するに蜂須賀氏入國當時山城谷、山等山間の動揺せる人民を鎮撫するために、上野守にへて優遇すべく言明して永年阿府たりし勝瑞に移り住ましめ、騒動鎮定後三千石を給したから上野守は之に憤慨して、浪人となの想像は雖も遠からずであらう。
 然るに何れの系図も藩主を憚りー萬石被をと簡単不平漏らしてゐるに相違ない。高阪丹波守上坂丹波守豊田郡の内萬石を領して観音寺町殿在城する公の力であるから、生駒氏にし託て討取るはない。矢張阿波志所載の如く高阪上坂氏の食客として生涯終わつたといであら。時に天正十八年七月九日年十三(系図)、墓は高阪上坂氏)墓地内にあつたが琴弾公園改造の際整理せられて其の所在を失ふ
(41-42頁)

付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。


参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。  
http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。 
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
合掌。









2012年12月3日月曜日

西岡城址







大西上野介に係わる城として、西岡城がある。今日、現地の友の案内で出かけたが、高速道路の建設の為、城の所在を示す石碑のみ垣間見ることが出来た。城址は高速道路の開削で消滅したのだろうか。
合掌。


参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
覚伝大明神、或いは、角田(かくでん)さん
西讃府志に記されていた角田さん
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html
上坂氏顕彰会所蔵手写本 ……… 今一つの和本の世界へ

西讃府志に記されていた角田さん

阿波の渡辺氏より、「西讃府志」に角田さんに関する記述がある旨、連絡を受けた。早速、書庫に入り、当該書冊を紐解いてみた。確かに、豊田郡坂本郷下市浦の項に、大西角田についての記述があった。
以下、私が所蔵する「西讃府志」手写本と那珂多度同志會刊行本(1898年刊)の当該箇所をご紹介申し上げる。
合掌。








此れ等の画像データは、上坂氏顕彰会所蔵「西讃府志」第39巻「豊田郡坂本郷之部」より作成したものである。
以下、簡単に、書誌を記す。
  「西讃府志」は、丸亀藩が藩政末期に制作した藩領に関する地歴書である。内容は、今一つ詳細を欠く面もあるが、現存する香川県西部地域に関する纏まった記録として唯一のものである。本書は、執筆担当者の直筆本と数部の手写本が存在するのみであったが、明治三十一年、那珂多度同志會の手によって、活字本が刊行された。
  「西讃府志」成立の経緯等に関しては、上記活字本編集者、堀田璋左右氏の解説が詳しい。  ただ、残念なことに、この活字版は、堀田氏も記している通り、縮約本であり、「西讃府志」全てが印刷に付されたわけではない。為に、今日、その全貌を探ろうとすれば、丸亀市立図書館、鎌田共済会図書館、香川県立図書館等で架蔵されている手写本を参考にしなければならない。
合掌。





那珂多度同志會刊行本「西讃府志(1898年刊)」272頁。



参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
覚伝大明神、或いは、角田(かくでん)さん
上坂氏顕彰会所蔵手写本 ……… 今一つの和本の世界へ

2012年11月25日日曜日

炙り海苔と醤油、そして、熱々ご飯の邂逅

私の朝食は、ご飯、吸い物、焼き魚、玉子焼き、漬物、そして、炙り海苔が、定番です。特に、炙り海苔、此れは欠かせません。海苔を炙り八つに切る。その海苔に醤油を付け、それで熱々のご飯を巻いて食べる。
炙り海苔と醤油、そして、熱々ご飯の邂逅。この秘密を知っている日本人に幸いあれ。
合掌。

2012年11月24日土曜日

覚伝大明神、或いは、角田(かくでん)さん

連休中日の今日、阿波の友人、渡辺氏の誘いで、徳島県三好市へ出張した。池田の町並み散策のあと、昼食をいただいた。それから、図書館を訪れ、「山城谷村史」を紐解いた。同行の友の話では、同書中に角田さんの名があるというのである。
讃岐観音寺の夏祭りは、龍王さん、蛭子さん、住吉さん、角田さんと続く。此れは、旧観音寺町内に住まいした者であれば、脳裏にあることである。ただ、角田(かくでん)さんは、他のお宮のご祭神とは異なり、お隣、阿波の武将、大西氏に繋がるものである。
大西氏の地元、阿波では、同所のみならず他地域をも網羅した大西神社に関する研究が行われてきた。然し、何故か、観音寺の角田さん(大西神社)への言及がなされていない。これは不可解なことである。因みに、大西氏に関しては、大西上野介も、上坂氏を頼り観音寺に落ち延びていた事実が、大西氏諸系図に記されている
地元で研究が進まないのであれば、此方でと思った。では、角田さんは、誰なのか。若しかして、上野介さんなのか。そう考えたこともあった。そして、今日、友人の手引きで、旧山城谷村(現三好市山城町)に、角田さんの事跡が伝わっていることを知った。
以下の文章は、「山城谷村史1208頁」からの引用である。
覚伝大明神
岩戸名都谷の原田芳一家の後の山林に俗に「カクデンサン」と称する塚がある。塚は川口黒川線(旧大野線)街道の路傍にあって、側に周囲三尺餘の椿の御神木がある塚の上には高さ約八寸屋根の長さ約一尺位の屋形型の石の御宮が束向に建立されている。右方に開く石の扉があって之を開けると中に覚伝大明神と刻まれている其の以外には文字はない、同家では御宮の上に木造の御須屋をこしらえ盆や旧節季などにはお燈明をあげお供物をしたり旧歳末には注連を張ったりして祭祀を行って居る。昔は婦女子で不浄な者は避けて通ったもので其の避け道が塚の下側に残っている。覚伝は大西角田であろう。覚養との関係については、確証はないが、大西氏の一族であり、本村に関係あったことは間違いないと思う。
上記引用文中に記されている原田家の方のお話に依れば、写真の塚を同家で数百年に渡りお守りをして来たとの由。亦、谷の奥には、角田屋敷の伝承もあるとのことであった。この角田さんと観音寺の角田さんの繋がり、考察してみようと思う。
合掌。


角田さんの塚の横には伊予へ抜ける古道が通っている。

角田さんの塚

角田さんの塚は、地図中央+の位置。地図は、Mapionからのトリミング

旧版「山城谷村史」収録地図からトリミング




付記
塚は、個人の敷地内にございます。調査等に関しては、それなりの配慮が肝要かと存じます。
合掌。




参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
西讃府志に記されていた角田さん
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

2012年11月23日金曜日

宇都宮匡児氏の仕事

畏友、宇都宮匡児大兄から、ご高著が届いた。蒲生家中の分限帳に関する本邦で最初の系統だった研究である。
私は、この春、氏の講演を聴く為、長駆、松山の地へと出張した。私の生涯で稀有の一日であった。
宇都宮氏が、今後も、持てる能力を思う存分発揮し、その天賦の才で、非命に倒れた蒲生氏、そして、その家臣団の研究を進めてくださることを祈念して止まない。
合掌。




上にアップロードした画像は、宇都宮氏からいただいたご高著と、付された書信である。氏のご好意に、心からの感謝を捧げるものである。
合掌。



付記
以下の拙文は、宇都宮大兄にご送付申し上げた文面である。

拝復、
ご高著、ご恵与賜り、有難うございました。
ご芳志、心より、お礼申し上げます。
非命に倒れた蒲生氏、蒲生家中に心を寄せる者にとって、大兄の纏められたお仕事は、待ちに待ったものでした。
数百年の間、望まれ、実現されなかったことなのでした。
日本に人が居た。
そのことを確信し、亦、喜びに満ちた時間を共有させていただきました。
記して、感謝いたします。
合掌。




参考
蒲生五郎兵衛郷治(上坂源之丞)
http://kanonji.blogspot.jp/2012/03/blog-post_12.html

佐藤篤氏の仕事

先日、佐藤篤がご来訪くださり、親しく歓談する機会を得た。亦、その折、氏の著した数々の書籍をご恵与いただいた。記して、心からの感謝を捧げるものである。
讃岐に生まれ住まいする私にとって、香西氏は、決して遠い存在ではない。然し、私の脳裏に蓄積されている知識はあまりに微々たるものであった。今後、佐藤氏の導きにより、新たな世界が開けようとしている。
ただただ感謝。
合掌。


中世讃岐国人 香西氏の実体 


 中世讃岐国人 伝承世界の香西氏


 中世讃岐国人 香西氏の歴史


勝賀山城の景観・香東川の流路


讃岐国と菅原道真


以上、アップロードした画像は、佐藤篤氏よりいただいたご高著の数々である。
合掌。



参考
合田學著「讃州香西郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代」
合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」  
讃州生駒家家臣 植松氏
讃州生駒家家臣 香西氏
讃州生駒家家臣 佐藤氏

2012年11月19日月曜日

いつもの山の食堂で昼食


今朝は朝寝をいたしまして、ご飯が出来た頃だなと思った時、何と、電話、土建屋です。早起きしたかというので、そうだと答えると、嘘を言うなと申します。何と、縁側から外を見ると、フェンスの外から、此方を窺う巨躯が見えます。それで、朝食も摂らず、お山へと向かったのでした。
まずは、いつもの山の食堂で昼食です。私は、此処でいただく食事が大好きです。婆ちゃん子だった私が、幼少時よりいただいて参った懐かしい手料理を出してくださるからです。

合掌。

2012年9月29日土曜日






昨日は、伊予三島から富郷へ入り、山の食堂で昼食をいただき、午後から、住友の森から冠山方面へと散策したのでした。ただ、時間の都合もあり、本格登山には到りませんでした。
標高千メートルを越えた辺り、リンドウが満開でした。
大兄、良い一日をお過ごしください。
合掌。

2012年9月4日火曜日

本日、増補しました。


時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。


http://kanonji.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html

本日、上記拙文を増補致しました。
合掌。