2012年5月12日土曜日

生駒氏統治時代の引田

昨日、畏友、三宅政広大兄との再会の為、引田の町を訪れた。
出かける度に、良い町並みになっている。
町の人たちの努力があるのだろう。
良い機会でもあるので、拙著「大内郡志(第三版)」より、以下の史料を公開する。
合掌。








当時の引田濱に於いては、大規模な本蔵入(生駒宗家直轄地)が設定されていたことが分かる。参考までに、大内郡内に於ける全ての本蔵入を明示したグラフをアップロードする。
合掌。







参考
合田學著 讃州大内郡志史料篇-1 生駒氏統治時代
追悼 生駒甚介(生駒甚助)正信公
引田城(標高82m、比高82m)

2012年5月11日金曜日

あんてぃーく三宅

東かがわ市引田2163番地の井筒屋敷内で、畏友、三宅政広大兄が、あんてぃーく三宅をオープンして、はや、数年の歳月が過ぎた。本日、久方ぶりに、お店を訪ね、旧交を温めることが適った。大兄のご配慮に心からの感謝を申し述べる次第である。
大兄は、御父君、御母堂の薫陶を受け、歳若の頃より、数多の古文書に精通、驚くような書冊を、私に提供してくださった。彼の持つ非凡な才は、学問を志す多数の人々の支えとなっている。良い仕事をする日本人が此処に居る。その真摯さに、ただただ感謝。
合掌。

追記
お接待いただいた珈琲、そして、和三盆糖で作ったアマンドというお菓子の美味しかったこと、特筆に値します。
引田に行った折は、アマンドの購入、お奨めです。
合掌。





2012年4月17日火曜日

躑躅、亀、そして、タラ








拙宅の庭でも、躑躅が咲き始めました。植木鉢の一株を含め、今日は、五つの木で花がついていました。亦、亀吉が元気に歩き始めました。春は確かに参りました。それに、移植したタラが芽を出しているのです。いつも食べてばかりですから、この小さな苗木は、自然の侭にして、大事に育てます。
合掌。

2012年4月15日日曜日

佐藤幸徳将軍追慕之碑

一昨日、道友、寒川氏から、インパール作戦に従事した第31師団長、佐藤幸徳中将の顕彰碑が、高松市の山間部に存在するそうだが、その場所を知らないかと尋ねられた。私は、寡聞にして、その場で、即答することが適わなかった。帰宅後、乗慶寺、阿部伸世氏のご教示を受け、何とか、その日の内に、寒川氏に解答することが出来た。亦、昨日、畏友、渡辺氏と現地に参り、碑を確認、以下の写真を撮影した。
合掌。

追記
山形県庄内町乗慶寺住職、阿部伸世氏のご好意に、心からの感謝を捧げる。
合掌。













高松方面から北上、塩江町の道の駅手前の信号を右折、内場ダム方面へ向かう。ダムを越え、道なりに走っていると、以下の写真のような案内板が右側に見えてくる。此処で、右折し、直ぐの橋を渡る。その後、左折し、其処から、右に登る道を暫く行けば、碑が見えてくる。車で傍まで参ることが可能。
合掌。





以下、グーグルアースより、航空写真二葉。
合掌。





補遺
調査にあたっては、高松市教育委員会の川畑氏にも、貴重なお時間を賜った。
記して、お礼を申し上げる。
合掌。



補遺 二
産経新聞ニュースから

「気品ある日本兵の姿を」 インド人監督がインパール作戦題材にメガホン

【ニューデリー=岩田智雄】
インド人の映画監督が今秋、第2次世界大戦で日本軍が大敗を喫したインパール作戦の激戦地、インド北東部マニプール州で、おじの日本兵の足跡をたどる女性を主人公にした映画を制作する。気品にあふれた真の日本兵の姿を伝え、現地の人々の記憶に残るエピソードを紹介したいという。
メガホンをとるのは、モーヘン・ナオレム氏(34)。「マイ・ジャパニーズ・ニース」(私の日本人のめい)と題された作品では、インパール作戦で戦った日本兵のめい「アサダ」が戦後、現地を訪れる。すると、おじが夢の中である村を訪ねるようアサダに呼びかける。そこでアサダは、日本兵らが残した数々のメモや日記を発見するというストーリーだ。
インド人の手でこうした映画が制作されるのは初めてで、撮影は9~10月ごろに始めるという。
日本軍は1944年のインパール作戦で、連合国側の中国への補給路を断とうとしたが、無謀な計画のために敗れ、多くの戦死者を出した。
現地で取材中のナオレム氏は産経新聞の取材に「マニプール州の人々には日本人とともに戦った記憶がある。日本は今も多彩な援助をしてくれており、日本人に親愛の情を示したいと思っていた」と答えた。
ただ、「日本兵の記憶が徐々に人々から失われている」といい、「まだ知られていない話を集めて映画で伝えたかった」と撮影にかける思いを吐露した。
また、「欧米では日本兵の残虐行為や犯罪に関する話が書き立てられているが、日本兵はもっとも気品があり親切な心を持った人々だった」としている。
ナオレム氏は同州での公開後、日本での上映に向けて協力者を探している。アジア各地での発表も模索しているという。
アサダ役には、大阪府箕面市のモデル、浅田結有(ゆう)さん(23)が挑み、今回がデビュー作。浅田さんは電話取材に「インパール作戦のことは何も知らず、今回勉強した。日本の若い人にも知ってもらえるきっかけになれば」と話した。



補遺 三
ビルマ戦線での美談として、小川三郎大佐の事跡は、是非とも、後世に伝えなくてはならない。
此処に、大佐に関する資料を、アップロード致します。
大蔵氏の著作から、氏が引用された泉可畏翁氏の著した「誇り高き男」の部分です。
著者、及び、発行者の皆様に、記して、お礼を申し上げます。
合掌。


泉可畏翁著 「誇り高き男」                                                                                            
 ある本を読んだ時「ビルマの悲風」という一章があり、何気なく読み続けると面白さにつり込まれて大要次の様な話を一気呵成に読んでしまった。
    、大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、タイのバンコクに岩畔機関という特務機関が出来た。その機関はインド義勇軍を組織して対印度独立工作を進めるというのが主な任務であった。その機関員に小川三郎という少佐が配属されて来た。機関長の岩畔(豪雄)大佐がその考課表を見ると、「陸士第三十八期生卒業序列が尻から二番目、二・二六事件に連座して停職六ヶ月」という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか一寸迷った。ある晩夕食のとき機関長は単刀直入、小川少佐に聞いて見た。「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強しなかったんだろう」というと、小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。機関長はてっきり勉強もして見たが不成績に終って残念だという風にごく普通の解釈をした。ところがそうではなかった。「私は陸士卒業の時是非ビリで卒業し度いと努めたが惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられた。(中略)                                  大東亜戦争が進んで印度の志士チャンドラ・ボースをドイツから迎えて印度義勇軍の首領とし、小川中佐はその連絡に任じていたが、当時インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、後退に後退を重ねていた。サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し小川中佐は言った。「早く後方の国境山脈まで退られよ」とすすめたが何といっても聞き入れぬので、これ以上痩我慢すべきではないと諌めた。するとボースはいった。「約百名の女子義勇軍をラングーンに残して居ながら男の自分だけが、どうしてオメオメ後退出来るか」と。小川中佐はこれに応じて「分った。私も日本人だ。日本軍人だ。誓って私が責任をもって女子義勇軍を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」というなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て、「最小限四台のトラックを融通して呉れ」と頼んだ。参謀は一台もないという。何とか工面して呉れと迫ったが無い袖はふれぬという。小川中佐は厳然として「無い袖をふるのが参謀の真の役割だ。ある袖をふるのなら誰れでも出来る」と、続いていった。「自分は印度のボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても断じて救出すると。こんどの大戦は或は敗戦の破局を迎えるかも知れぬが、たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼出来るとのイメージを印度の人たちに残して死に度い。形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では敗れて居らぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。四台のトラックはこのため何とかすべきだ」と熱情をこめていい放った。黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何もいわず、どこからか四台のトラックを工面して来た。小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲下の首都に駆けつけて無事女子義勇軍約八十名を救出しボース首領の手元に連れて来たがその後、同中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。

注記
下記画像データをテキスト化した。
合掌。






補遺 四  (2013年7月7日記)
先日、隣県の渡辺氏と満濃町の琴南中学校付近から塩江へ抜ける林道を走った。路は、柏原渓谷よりも阿讃山脈寄りを走っていた。笠形山の登山口も沿道にあった。この路、下を走る柏原渓谷沿いの道より遥かに広かった。亦、塩江の手前で右に折れた所、何と、佐藤幸徳将軍追慕之碑の傍に降りていった。この路、お奨めである。
合掌。

2012年3月31日土曜日

タラノメの吸い物

お早うございます。
朝食をいただきました。
献立は、ご飯、タラノメの吸い物、蕗の煮物でした。
旬を取り込んだ簡素な朝餉に、感動を覚えました。
合掌。

2012年3月21日水曜日

土筆の天麩羅

一昨日、オツネントンボを探していたら、ふと、足元に、たくさんの土筆が生えているのに気付きました。採取用の袋がなかったので、小さな封筒に入るだけ採ってみました。帰途、知人に半分ほど差し上げたのですが、早速、天麩羅にしてくださいました。ご好意に感謝し、いただきました。美味しかったです。
合掌。


2012年3月17日土曜日

初蜻蛉(First damselfly) 2012

三月十七日、初蜻蛉です。今日は午後から気温が上がり、若しかしたら蜻蛉に逢えるのではないかと思い、山池に向かったのでした。期待に違わず、蜻蛉(オツネントンボ、Sympecma paedisca)たちが姿を見せてくれました。有り難いことです。ただただ、感謝です。
合掌。




追記
因みに、昨年は、三月十五日が、初蜻蛉。然し、写真がピンボケだったので、十九日に再度山池へ参り、撮り直しています。
合掌。

春 山菜の季節

拙宅では、一ヶ月ほど前から、フキノトウが姿を現せています。今朝、四箇所で撮影してみました。この季節になると、私の心は落ち着かず、山へ山へと向かいたくなるのです。フキノトウ、タラノメ、スギナ等々、豊かな食材に出遭えます。なかでも、私の好物は、タラノメの吸い物です。タラノメの外側の赤茶色の皮、これを生理的食塩水程度の吸い物に加えるのです。得も言われぬ木の香りが致します。或いは、これを小さく刻み、醤油と味醂で炒めても良い酒の肴になります。タラノメそのものより、皮のことばかり記しました。
合掌。







行き付けの山の食堂、春を迎え、店を開きました。未だ、山菜天麩羅を愉しむには早いですが、心の篭った手料理に、心が和みます。
合掌。

2012年3月12日月曜日

蒲生五郎兵衛郷治(上坂源之丞)

蒲生五郎兵衛郷治(上坂源之丞)、数十年に渡り、関心を持ち続けて来た我が父祖の一人である。昨日、幸運にも、彼の新たな消息を知る機会を得た。勉強会、研究会といった場に足を運ぶことのない私が、何故か出かけたのである。それも、長駆出張して・・・・・。
宇都宮匡児氏の「蒲生家分限帳諸本について」の講義は、まさに、私の望むものであった。奇しくも、そこで、五郎兵衛老が登場したのである。
講師の宇都宮匡児氏、伊予史談会会長の高須賀康生氏を始め、当日例会を準備された皆様に、記してお礼を申し上げる。
合掌。



写真の書冊は、嘗て(1987年10月26日)、私が子供たちの為に刊行した「氏郷記」である。




補遺
我が幼少の折、父祖の物語に再三にわたって登場したのが、蒲生氏郷候とその旗下の武将たちであった。蒲生氏は、我が父祖、上坂氏と古い縁戚関係にあり、その為か、候は、その家臣団に、上坂兵庫頭家系統の武将を何人か抱えたようである。上坂兵庫頭、上坂左文(蒲生郷可)、上坂源之丞(蒲生郷治)等である。  彼らは、氏郷候と共に、戦国末期の戦野を雄雄しく駆け抜け、亦、建設期に入った江戸初期にあっては、藩政の中枢を担った。斯様な彼ら上坂氏一門の活躍を詳細に伝える「氏郷記」の復刊は、小会がどうしても果たしたい夢であった。先日、史籍集覧を復刻した出版社の方にお伺いしたところ、明治十八年刊行の和綴本のリプリントならば、著作権にも抵触しないというお話であったので、少部数に限り復刊、小会の理想日本リプリントに収録することとした。併せて、小会図書収集部所蔵の「蒲生軍記」「蒲生氏郷記」「蒲生家侍帳」等の公開も進める所存である。
本書の復刊にあたっては、小会図書収集部所蔵本の電子データを使用した。用いたテキストは、明治十八年に、近藤瓶城氏が刊行した「史籍集覽」所収の「氏郷記」。その法量は、縦18.4cm、横12.4cm。その表紙には、紺色の和紙が使用されている。
合掌。

2012年3月6日火曜日

「長元物語」に見る観音寺香川氏

万治二年(1659年)成立とされる「長元物語(立石正賀著)」に、観音寺香川氏について、以下の記述がある。
合掌。


一 同国ノ侍観音寺石田砥川羽床長尾北條香西連々土佐ヘ降参ス (下巻三十九丁)

一 観音寺ヲ初トシ其外国持降参衆ハ知行前二不替下サレ年頭歳暮ノ式礼有之事 (下巻四十丁)


2012年2月16日木曜日

観音寺、琴弾宮

神仏分離、廃仏毀釈という暴挙により、日本は破壊された。
我が郷里、観音寺も例外ではない。
古刹、観音寺の境内(十王堂付近)にあった武士団の墓所は、新たな神社施設の造営により、悉く破却され、嘗ての面影を失った。
これが宗教的行為というのであれば、斯様な宗教に価値は無い。
誠に残念なことである。
合掌。



 観音寺全体図

左上

右上

左下

右下

琴弾宮全体図

左上

右上

左下

右下

宿居、梅腋の濱他

左上

右上

左下

右下

2012年2月14日火曜日

香川藤太夫庸昌(香河藤太夫庸昌)


香川藤太夫庸昌(香河藤太夫庸昌)、郷里が生んだ非凡な才の先人である。
冒頭の画像は、拙宅に伝わる彼の蔵書に記された署名を蒐集したものである。
現在、紐解いている『生駒記』の類本『讃岐拾遺』の中に、「庸昌覚書ニモ・・・」、「庸昌云」といった記述が垣間見れる。興味深いことである。
合掌。


追記
彼の屋敷は、嘗て、観音寺市一ノ谷郷土史研究会の方々から、一ノ谷中田井にあったと聞き及んでいる。亦、活字化された著作としては、「家密枢鑑」が知られている。
尚、手元にある香川系図の一つに、「・・・・・香川連枝千変万化ト合戦スル所味方一族武運拙ク皆悉ク落城シテ一族所々ヘ離散ス是時・・・・・香川長太夫ハ刈田郡中田井村ヘ落行・・・・・」との記述があり、香川藤太夫は、長太夫の末裔かとも考えられる。
合掌。

上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)

先のスレッドで記した上坂氏と大西氏の数奇な出会い、本日、東京大学史料編纂所が公開しているデータベース上の二系図でも確認した。


2謄写本2071.81-8阿波国古文書徳島県庁

上記文書第10分冊中の画像番号85左頁、画像番号89右頁に、其の事が記されている。
合掌。



注記
画像番号は、画像の左上に付されている。
合掌。


参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html