一昨日、道友、寒川氏から、インパール作戦に従事した第31師団長、佐藤幸徳中将の顕彰碑が、高松市の山間部に存在するそうだが、その場所を知らないかと尋ねられた。私は、寡聞にして、その場で、即答することが適わなかった。帰宅後、乗慶寺、阿部伸世氏のご教示を受け、何とか、その日の内に、寒川氏に解答することが出来た。亦、昨日、畏友、渡辺氏と現地に参り、碑を確認、以下の写真を撮影した。
合掌。
追記
山形県庄内町乗慶寺住職、阿部伸世氏のご好意に、心からの感謝を捧げる。
合掌。
高松方面から北上、塩江町の道の駅手前の信号を右折、内場ダム方面へ向かう。ダムを越え、道なりに走っていると、以下の写真のような案内板が右側に見えてくる。此処で、右折し、直ぐの橋を渡る。その後、左折し、其処から、右に登る道を暫く行けば、碑が見えてくる。車で傍まで参ることが可能。
合掌。
以下、グーグルアースより、航空写真二葉。
合掌。
補遺
調査にあたっては、高松市教育委員会の川畑氏にも、貴重なお時間を賜った。
記して、お礼を申し上げる。
合掌。
補遺 二
産経新聞ニュースから
「気品ある日本兵の姿を」 インド人監督がインパール作戦題材にメガホン
【ニューデリー=岩田智雄】
インド人の映画監督が今秋、第2次世界大戦で日本軍が大敗を喫したインパール作戦の激戦地、インド北東部マニプール州で、おじの日本兵の足跡をたどる女性を主人公にした映画を制作する。気品にあふれた真の日本兵の姿を伝え、現地の人々の記憶に残るエピソードを紹介したいという。
メガホンをとるのは、モーヘン・ナオレム氏(34)。「マイ・ジャパニーズ・ニース」(私の日本人のめい)と題された作品では、インパール作戦で戦った日本兵のめい「アサダ」が戦後、現地を訪れる。すると、おじが夢の中である村を訪ねるようアサダに呼びかける。そこでアサダは、日本兵らが残した数々のメモや日記を発見するというストーリーだ。
インド人の手でこうした映画が制作されるのは初めてで、撮影は9~10月ごろに始めるという。
日本軍は1944年のインパール作戦で、連合国側の中国への補給路を断とうとしたが、無謀な計画のために敗れ、多くの戦死者を出した。
現地で取材中のナオレム氏は産経新聞の取材に「マニプール州の人々には日本人とともに戦った記憶がある。日本は今も多彩な援助をしてくれており、日本人に親愛の情を示したいと思っていた」と答えた。
ただ、「日本兵の記憶が徐々に人々から失われている」といい、「まだ知られていない話を集めて映画で伝えたかった」と撮影にかける思いを吐露した。
また、「欧米では日本兵の残虐行為や犯罪に関する話が書き立てられているが、日本兵はもっとも気品があり親切な心を持った人々だった」としている。
ナオレム氏は同州での公開後、日本での上映に向けて協力者を探している。アジア各地での発表も模索しているという。
アサダ役には、大阪府箕面市のモデル、浅田結有(ゆう)さん(23)が挑み、今回がデビュー作。浅田さんは電話取材に「インパール作戦のことは何も知らず、今回勉強した。日本の若い人にも知ってもらえるきっかけになれば」と話した。
補遺 三
ビルマ戦線での美談として、小川三郎大佐の事跡は、是非とも、後世に伝えなくてはならない。
此処に、大佐に関する資料を、アップロード致します。
大蔵氏の著作から、氏が引用された泉可畏翁氏の著した「誇り高き男」の部分です。
著者、及び、発行者の皆様に、記して、お礼を申し上げます。
合掌。
泉可畏翁著 「誇り高き男」
ある本を読んだ時「ビルマの悲風」という一章があり、何気なく読み続けると面白さにつり込まれて大要次の様な話を一気呵成に読んでしまった。
、大東亜戦争でシンガポールが陥落する直前、タイのバンコクに岩畔機関という特務機関が出来た。その機関はインド義勇軍を組織して対印度独立工作を進めるというのが主な任務であった。その機関員に小川三郎という少佐が配属されて来た。機関長の岩畔(豪雄)大佐がその考課表を見ると、「陸士第三十八期生卒業序列が尻から二番目、二・二六事件に連座して停職六ヶ月」という豪の者で、機関長はどんなポストに使うべきか一寸迷った。ある晩夕食のとき機関長は単刀直入、小川少佐に聞いて見た。「君は陸士の卒業序列が尻から二番だがあまり勉強しなかったんだろう」というと、小川少佐はすかさず「実に残念でたまりません」と答えた。機関長はてっきり勉強もして見たが不成績に終って残念だという風にごく普通の解釈をした。ところがそうではなかった。「私は陸士卒業の時是非ビリで卒業し度いと努めたが惜しくも念願がはずれて、尻から二番に止まり実に残念無念でした。ビリの卒業というのはなかなか難事中の難事ですね」と笑って答え、さすがに剛腹の機関長も呆気にとられた。(中略) 大東亜戦争が進んで印度の志士チャンドラ・ボースをドイツから迎えて印度義勇軍の首領とし、小川中佐はその連絡に任じていたが、当時インパール作戦後のビルマの日本軍は戦勢利あらず、後退に後退を重ねていた。サルウィン河畔に踏みとどまっていたチャンドラ・ボーズに対し小川中佐は言った。「早く後方の国境山脈まで退られよ」とすすめたが何といっても聞き入れぬので、これ以上痩我慢すべきではないと諌めた。するとボースはいった。「約百名の女子義勇軍をラングーンに残して居ながら男の自分だけが、どうしてオメオメ後退出来るか」と。小川中佐はこれに応じて「分った。私も日本人だ。日本軍人だ。誓って私が責任をもって女子義勇軍を救出し、貴方の膝下に連れ帰るから安心して後退せられよ」というなり方面軍の後方担当参謀のところにやって来て、「最小限四台のトラックを融通して呉れ」と頼んだ。参謀は一台もないという。何とか工面して呉れと迫ったが無い袖はふれぬという。小川中佐は厳然として「無い袖をふるのが参謀の真の役割だ。ある袖をふるのなら誰れでも出来る」と、続いていった。「自分は印度のボース首領に誓ったのだ。ラングーンに残された女子義勇軍は日本人の面目にかけても断じて救出すると。こんどの大戦は或は敗戦の破局を迎えるかも知れぬが、たとえどんな、どん底に陥っても日本人は嘘をつかなかった。どんな逆境に立っても日本の軍人は最後まで信頼出来るとのイメージを印度の人たちに残して死に度い。形の上の戦争ではたとえ敗れても心の上の戦争では敗れて居らぬ証拠を世界の人々に示すべき絶好の機会だ。四台のトラックはこのため何とかすべきだ」と熱情をこめていい放った。黙々としてその言葉を聞いていた参謀は何もいわず、どこからか四台のトラックを工面して来た。小川中佐は喜んでこれを受け取るとまっしぐらに包囲下の首都に駆けつけて無事女子義勇軍約八十名を救出しボース首領の手元に連れて来たがその後、同中佐は南ビルマの戦闘で戦死した。
注記
下記画像データをテキスト化した。
合掌。
補遺 四 (2013年7月7日記)
先日、隣県の渡辺氏と満濃町の琴南中学校付近から塩江へ抜ける林道を走った。路は、柏原渓谷よりも阿讃山脈寄りを走っていた。笠形山の登山口も沿道にあった。この路、下を走る柏原渓谷沿いの道より遥かに広かった。亦、塩江の手前で右に折れた所、何と、佐藤幸徳将軍追慕之碑の傍に降りていった。この路、お奨めである。
合掌。