鎌倉幕府の滅亡から南北朝の時代を、善悪の立場から見る歴史感が蔓延してしまった吾が祖国、残念なことです。元寇という外圧があって、他国からの侵略という脅威を脳裏に意識した人々と、己が立身、己が所領にしか感心が及ばぬ者たちとの懸隔は大きかったのです。ここを見ずに語る歴史など、世迷いごとです。いい加減、この辺り、大人にならないと、日本は、この世界で生きていけないかと思います。
歴史教科書に関しての煩瑣な注文記事が散見されますが、僕に言わせれば、壬申の乱、天武天皇、蝦夷を含む東北史、そして、鎌倉幕府(特に、北条氏)の再評価こそ、肝要かと思うのです。いや、焦眉の課題とも言えます。
合掌。
追記
吾が師、竹山道雄先生は、亦、違った角度から、違った時代を論じられていています。
以下、引用致します。
合掌。
高松の栗林公園は大名の庭で、自然と人工をあわせて保存手入れもよく、岡山の後楽園とはくらべものにならないほど立派である。
どの角度から見てもあたらしく整った景色があらわれてくる池をめぐりながら、こんなことを考えた。
徳川時代の文化の担い手は、武士階級だった。ことに大名だった。その文化的表現は、城郭や庭園、きびしい克己抑制の道徳と作法、隠者的な文人趣味の観照生活、能、墨絵、古典的な詩文などだった。武士階級は、プラトンが要求したように、感覚的な現世的な芸術をいやしめた。それは、いわゆる人間味を排し禁じた。
武士は上にあって、noblesse oblige-高貴なる者の義務をもっていた。ところが、町人は下にあってどうせ下賎な者としてこの義務を免ぜられ、頭をもたげないかぎり何をしても大目に見られた。この制約の中で人間的表現をゆるされた。だから、それはゆたかな感覚性をもったものではあったが、ともすると歪んだ放肆なものとなった。吉原が町人文化の象徴だった。
われわれは中学校以来、徳川時代の文化の担い手は町人であったと教わり、徳川文化は吉原くさいと思っていたが、これはまちがいであるらしい。町人文化の方が代表と思われるようになったのは、町人文化の方が現代の文化の概念に親近性があるからである。浮世絵は西洋人が珍重し、西鶴は自然主義を思わせる。武士文化には現代の好みにあうような人間味がなかった。
町人文化は日蔭の花として、疚しい良心をもちながら咲いた。その限られた制約の中ではなはだ人間的だった。あまり好ましからぬ意味でも人間的だった。しかし、当時にあっては、これは表面の文化ではなかった。
徳川時代は貴族趣味の時代だった。現代はこれを白眼視して、むしろ当時にあっては余計者が作ったものを、これのみが当時の文化であったと認めているのだろう。
現代になって、デモクラシーと共に、武士文化の系統は忘れられ、棄てられ、破壊された。それに反して、町人文化の系統が一椴化して、これが現代の大衆文化の様式の基礎になった。
その感覚至上主義、公共性の欠如、責任ある主体的人格の欠如、克己抑制のなさ、無形無名のうごき方などは、こういう歴史的背景から説明される部分が大きいのであろう。
歴史のあとをたずねて、昔を再現して思いうかべて見ると、いかに近代日本が大変化をとげたかになどろかされるのである。
(竹山道雄著「四国にて」より、一分引用)