田村左源太氏が著した「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項を、画像データ(一部テキスト)にて、アップロードする。
本書は、昭和十二年八月二十五日、徳島県三好郡佐馬地村大字白地字本名321在住の田村左源太氏が執筆、ご本人自ら刊行されたものである。
優れた先達の研究に、心からの敬意を表するものである。
合掌。
天正十一年讃岐平定後上野守の動静に就ては、長元記、元親記、南海治乱記等に何等の記事がない。唯阿波志に元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居任す、瑞雲公菜地を賜ふ。辞して讃岐室本城に至り、高阪氏(上坂氏)方に老すとあるのみ。元親の阿讃征討には懐刀として活動したる上野守も、其後は極めて淋しくあつた。実に人の一生ほど前知せられぬものはない。漆川大西系図に「天正十三年蓬庵公阿波国御領知之時大西上野御尋有知行壹萬石被下筈、在板野郡勝瑞村、其後背蓬庵公之心意、牢浪而立寄讃州観音寺阪本城主高阪丹波守(上坂丹波守)終生涯」とあり。山城谷大野系図には「蓬庵公御討入之後上野御尋ニテ被召出、高三千石拝領其後不足申立御国ヲ立退云々、高阪丹波守(上坂丹波守)へ便り終ニ此所ニテ卒」とあり。大野素姓記には「家政公當御入國ノ節、國士ノ内ニテハ上野ヲ一番ニ召出サレ云々、御家へ不足出来立退云々、讃州和田二住シテ、名主ヨリ家政公へ注進シテ、生駒讃岐守殿へ御頼成サレ和田ニテ討取、當國へ首ヲバ送ラル云々」とある。何れも多少の相違はあるが、蜂須賀家に対し不平で浪人せしといふ点は一致する。之を考察するに知行壹萬石の筈で旧領を去つて、待命の後三千石拝領した、之が蜂須賀家へ不足出来食録を抛ちて浪人となりたる原因に相違ない。何故に斯かる喰違が出来たかを想像するに、蜂須賀氏入國當時山城谷、祖谷山等山間の動揺せる人民を鎮撫するために、上野守に壹萬石を與へて優遇すべく言明して、永年阿治府たりし勝瑞に移り住ましめ、騒動鎮定後三千石を給したから上野守は之に憤慨して、浪人となつたとの想像は當らずと雖も遠からずであらう。
然るに何れの系図も藩主を憚りー萬石被下筈をと簡単に不平を漏らしてゐるに相違ない。高阪丹波守(上坂丹波守)は豊田郡の内壹萬石を領して観音寺町殿町に在城する豊公の與力であるから、生駒氏にし託て討取る筈はない。矢張阿波志所載の如く高阪氏(上坂氏)の食客として生涯を終わつたといふが眞であらう。時に天正十八年七月九日年四十三(善正寺系図)、墓は高阪氏(上坂氏)墓地内にあつたが琴弾公園改造の際整理せられて其の所在を失ふといふ。
(41-42頁)
付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。付記
参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。 http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
合掌。