観音寺、四国、そして、日本
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2016年8月31日水曜日
ある日の夕焼け
先にアップロードした「海からの風」と撮影日が前後する写真群です。
合掌。
2016年8月30日火曜日
海からの風
僕は、海から吹いて来る西風に育てられました。この風が吹いてくると、元気を取り戻します。
合掌。
2016年8月28日日曜日
興昌寺
興昌寺、生駒藩政期には、豊田郡坂本村にて、寺領六石六斗を給されていた。この石高は、生駒藩によって、特に撰ばれ、地方知行を得ていた、讃岐国内二十五ヶ寺の内、十六番目に位置する。近隣の萩原寺が
三石九斗七升、
持寳院本山寺が
一
石五斗四升、観音寺にいたっては皆無であった事実を考慮すると、その厚遇ぶりが理解できるかと思う。
その
興昌寺が、後の京極藩政後期に編纂された西讃府志では僅かな記述しか見られず、金毘羅参詣名所図会にいたっては記されてもいない。
こうした事実を前提に、生駒氏統治下に於いて、何故、興昌寺が厚遇されていたのかを考察するのが、本稿の目的である。
合掌。
生駒藩政期の地方知行を物語る「讃州御国中村切高惣帳」によると、興昌寺の所領は、豊田郡坂本村に設定されていた。興昌寺の他、市原惣左衛門(奉行)、坂本甚太夫(郡奉行)、佐久間十郎右衛門(石崎若狭組)、本蔵入(生駒宗家直轄地)の名が散見される。
讃州御国中村切高惣帳では、坂本村、観音寺村は、別途記載されていたこと、特筆しておく。
合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より
合田學著「讃州豊田郡志」より
生駒家家臣分限ノ記に見る興昌寺である。三野郡、豊田郡の寺社領記載部分をアップロードする。豊田郡では、興昌寺と萩原寺のみが、寺領を給されていたことが分かる。
合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」より
参考
生駒家家臣分限ノ記に名が記されている寺
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2016/08/blog-post_20.html
生駒家家臣分限ノ記に見る三野郡豊田郡に於ける寺社領
http://kanonji.blogspot.jp/2016/08/blog-post_23.html
本稿、未完。
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