その興昌寺が、後の京極藩政後期に編纂された西讃府志では僅かな記述しか見られず、金毘羅参詣名所図会にいたっては記されてもいない。
こうした事実を前提に、生駒氏統治下に於いて、何故、興昌寺が厚遇されていたのかを考察するのが、本稿の目的である。
合掌。
生駒藩政期の地方知行を物語る「讃州御国中村切高惣帳」によると、興昌寺の所領は、豊田郡坂本村に設定されていた。興昌寺の他、市原惣左衛門(奉行)、坂本甚太夫(郡奉行)、佐久間十郎右衛門(石崎若狭組)、本蔵入(生駒宗家直轄地)の名が散見される。
讃州御国中村切高惣帳では、坂本村、観音寺村は、別途記載されていたこと、特筆しておく。
合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より
合田學著「讃州豊田郡志」より
合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」より
参考
生駒家家臣分限ノ記に名が記されている寺
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2016/08/blog-post_20.html
生駒家家臣分限ノ記に見る三野郡豊田郡に於ける寺社領
http://kanonji.blogspot.jp/2016/08/blog-post_23.html
本稿、未完。
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