2010年7月21日水曜日

田岡 天麩羅蕎麦


湿原に上がりました。然し、あまりの暑さに、写真撮影に集中出来ませんでした。こんな時は美味しいものをいただくに限ると、湿原の仙人蕎麦はパスして、井川経由で三加茂に向かったのでした。田岡の蕎麦はお気に入りです。初めて出かけてから、はや、三十年の月日が流れました。
合掌。

2010年7月9日金曜日

祖谷蕎麦。


同期の友人と昼食に祖谷蕎麦をいただきました。
合掌。

2010年6月23日水曜日

黒沢湿原名物丸岡食堂 仙人蕎麦


黒沢湿原名物、仙人蕎麦です。湿原の翁が調理してくれる有り難い食べ物です。蕎麦の上に八種の山菜天麩羅(衣が分厚くドーナツと間違うかもしれませんが)、数多の茸、卵等々が乗り、栄養たっぷりです。長時間の撮影でへとへとになった時、これをいただき休息するのです。山中のこと故、器云々、味云々、盛り付け云々の話は無しです。と申しますのも、弁当持参を忘れ、亦、仙人様不在の折は、空き腹を抱えての湿原彷徨となりますから。
合掌。

2010年6月6日日曜日

湖畔のやかた(山郷にある食堂) 山菜天麩羅定食


隣県の山郷にある食堂で、山菜天麩羅定食をいただきました。
お腹いっぱいになりました。
合掌。

2010年5月27日木曜日

ます梅 晩酌


多忙故、暫く訪ねることが出来なかった私の心の故郷、ます梅に、昨夜、お邪魔致しました。
愉快愉快、欣懐至極です。
以下のメニューをいただきました。
白子のポン酢和え、芥子レンコン(熱々をいただくのは最高)、あおりいかの刺身、天麩羅(稚鮎、三つ葉、牛蒡、海苔)、牛肉の煮込み、茶蕎麦。
大将は、実に丁寧に、真摯に、料理に取り組んでおられます。
心惹かれます。
合掌。

2010年4月27日火曜日

カトウ ひれカツ



八時も過ぎてから外出、カトウに立ち寄り、ひれカツとワインを頼みました。定食メニューも良いですが、単品のひれカツも是非ご賞味あれ。お奨めです。今夜は写真を撮りませんでした。画像は次回アップします。
合掌。

2010年4月26日月曜日

田岡 かけそば


県境を越え野山を散策、帰途、田岡のかけそばをいただきました。
合掌。

2010年4月10日土曜日

カトウの定食



今日は何だか生だるく元気がありませんでした。
これではいけないと、外気を吸いに出かけ、帰途、カトウの定食をいただきました。
元気が出ました。
今夜も会があり、いま少ししたら出かけます。
合掌。

追記
自らの仕事に誇りを持ち、献身する人が居ること、カトウに初めてお邪魔した時、感じました。
良い人が存在する、欣懐至極です。

カトウ
香川県観音寺市昭和町1-9-32
0875-25-6717
定食の時間は、11:30〜14:30、17:00〜19:30

合掌。

2010年1月4日月曜日

金毘羅参詣名所図会に記された観音寺。

「金毘羅参詣名所図会」について
讃岐の地には、「こんぴらさん」として親しまれている「金刀比羅宮」がある。「讃州御国中村切高惣帳(寛永十六年成立)」によれば、古くは「金毘羅」と称されてお り、別当を松尾寺が勤めていた。上記の生駒家奉行文書は、生駒宗家が寄進した金毘羅領(後世、俗に言う御朱印地)三百三十石の内訳を、金毘羅領二十三石五斗、松尾領三百六石五斗と記している。(詳細は、合田學著「讃州御国中村切高惣帳(上坂氏顕彰会史料出版部刊)」を参照されたい。) 国主、生駒氏の寺社への深い崇敬は、後の国主たちにも受け継がれていった。そし て、維新の動乱、明治政府の樹立、廃仏毀釈が起こるまでは、讃岐の寺社には平穏な日々が続いたようである。本書「金毘羅参詣名所図会」は、そのような神仏分離以前の讃岐の寺社の姿を伝えてくれる史料として貴重である。 ただ、本書の著者は、執筆に際し二ヶ月しか当地に滞在しておらず、細部に渡って自身の見聞を記したとは言えないかもしれない。むしろ、当時存在したであろう文献資料を猟渉、執筆の参照にしたと考えた方が無難であろう。然し、何はともあれ、江戸期の人によって描かれた当時の讃岐の姿は、現代に生きる我々にとっては、随分と珍しいもので参考になる。
本書は、六巻より構成されており、弘化四年(1847年)の出版である。 著者は、暁鐘成。「西国三十三所名所図会」、「摂津名所図会大成」、「淡路国名所図会」等の著作がある。絵師は、浦川公佐。
合掌。




岩国の錦帯橋を髣髴させる絵が記されていますが、これが、江戸時代後期の三架橋です。亦、財田川は染川とも呼ばれていたように、川原に染物を干している情景も描かれています。この画像をダウンロード、そして印刷し、細部を分析してみるのも一興かと存じます。
合掌。




現在、十王堂と称されている地域は、江戸時代、当地の武士団の墓所でした。観音寺城(高丸城)城主、上坂丹波守、上坂勘解由といった人々の墓所が営まれていましたし、足利時代の侍名を記した骨壷なども発掘されています。
明治以降、神仏分離により、嘗ての寺域内に八幡宮の施設が新設された為、その面影は潰えさってしまいました。残念なことです。
合掌。



上掲画像は、旧版「観音寺市誌」に収録されている上坂丹波守の碑を写した写真です。神仏分離後、墓域は、神社の境内地となり、荒廃してしまいました。残念なことです。
合掌。

追記
阿波サイドの史料に拠ると、大西上野守(大西上野介)の墓所も営まれていたそうです。詳細は、以下の拙文をご参照ください。

参考
大西上野守は、阿波を離れ、上坂丹波守の庇護を受け、晩年を観音寺で過ごしていた。
合掌。



琴弾八幡宮の別当寺として栄えた観音寺、今日とは異なる相貌を見せています。
合掌。




神仏分離以前の琴弾八幡宮は、琴弾山山頂に鎮座、山麓に宮の施設はございませんでした。
合掌。

参考
観音寺、琴弾宮
http://kanonji.blogspot.com/2012/02/blog-post_16.html

2009年12月27日日曜日

カトウでお昼ご飯。

カトウというお店が観音寺にございます。
こちらのお昼は三十種近くの定食が準備されています。
合掌。