我が町、観音寺市には、殿町という近隣市町村には無い地名がある。その謂れは、其処に大規模な平城が営まれていたからである。
城は、景全城、観音寺城、高丸城と呼ばれていたらしい。
亦、その城主として、多度津香川氏の分家、観音寺香川氏(香川景全)、そして、太閤与力、上坂氏(上坂丹波守、上坂勘解由)の名が、今日まで伝えられている。
この地図は、「香川県中世城館跡詳細分布調査報告(香川県教育委員会2003年刊)」より転載させていただいた。関係諸氏に、記して、お礼を申し上げる。
合掌。
信号機に付された町名表示板
筆者は、昨日、遠方より来県された石井氏と共に、姿を消した観音寺香川氏の足跡を求め、高知県幡多郡大方町鹿持川へと出張した。谷筋に開かれた水田を抜け、観音寺香川氏の居城と伝えられる鹿持川城址へ登った。
写真は、空掘跡である。
大方の中世城跡より
大方の中世城跡より
同行の石井氏は、観音寺香川氏の末裔であり、この調査は、慰霊の旅であった。鹿持川へ参るのは、石井氏は初回、私は三回目であった。ただ、城址へ辿り着いたのは、今回が初めてである。
私たちを、斯様な遠くの地へと誘ったのは、「長宗我部地検帳」幡多郡入野郷鹿持川の項に記された驚くべき記述であった。其処には、観音寺新左エ衛門殿分と記された数多の田畑があったのである。この事実を、一早書く世に知らされたのは、高知県の上岡正五郎氏と朝倉慶影氏であった。お二人は、「地検帳が語る幡多の歴史」、「石川氏及び天正期東予・西讃の諸将についての研究」の両書中で、そのことを伝えてくださった。私たち讃岐人は、上岡氏、朝倉氏の優れた研究に感謝しなくてはならない。亦、讃岐武士の土佐に於ける事跡を著す折は、優れた先達として、上岡氏、朝倉氏の名前を記すのが礼儀であろう。尚、この両者に先行する史家として、「秦士録」の著者、奥宮正明氏の名も忘れてはならない。長宗我部地検帳分析作業の鏑矢とも呼ぶべく書冊を記した先人である。
合掌。
この地図は、国土地理院のホームページからダウンロードした。記して、お礼を申し上げる。
鹿持川城址は、地図中央十字マークの部分である。近年、未舗装ではあるが、林道が設えられていて,城址傍まで自動車で参ることが可能である。
さて、城址から降りた石井氏と私は、高知県立図書館へと向かい、同館の郷土資料室で文献資料を閲覧、帰途に就いた。
合掌。
追記
朝倉氏は、観音寺景全(かげはる)、香川景全と称される讃岐観音寺城主の嫡子が、地検帳に記された観音寺新左エ門ではないか、亦、観音寺備前と記された人こそが、観音寺景全本人ではないかと指摘された。大変興味深い考察である。然し、私は、この件に関しては、早急な結論を控え、今後の課題としたい。
尚、地検帳、高岡郡日下村に、観音寺又五郎の名が見受けられる。然し、給された田畑が、観音寺新左エ門の十分の一にも及ばず、殿という尊称も付されていない旨、付記しておく。依って、又五郎は、観音寺香川氏一門の可能性大ではあるが、香川景全とは別人であると考える。
合掌。
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