金毘羅参詣名所図会 第三巻より
中世末の騒乱を経、近世を迎えた讃岐には、豊臣系の新知大名が、赴任して来た。然し、仙石氏、尾藤氏は、島津攻めの不始末で、それぞれ一年で讃岐の地を去り、新たに生駒氏が、太閤与力・上坂氏等と共に、讃岐を領知した。
戦乱で灰燼に帰していた延命院曼荼羅寺に於いても、生駒宗家、そして、家臣の三野氏等の尽力により、文禄年中(1593-96年)、新たに堂宇が建立され、九石三斗の寺領が寄進された。その知行所は、讃州御国中村切高惣帳に依れば、多度郡吉原村に設定されていた。曼荼羅寺にとって、文字通り、近世の幕開けであった。
戦乱で灰燼に帰していた延命院曼荼羅寺に於いても、生駒宗家、そして、家臣の三野氏等の尽力により、文禄年中(1593-96年)、新たに堂宇が建立され、九石三斗の寺領が寄進された。その知行所は、讃州御国中村切高惣帳に依れば、多度郡吉原村に設定されていた。曼荼羅寺にとって、文字通り、近世の幕開けであった。
合掌。
付記
吉原村に知行所を持つ生駒家給人たちの名を見て驚いた。高松城下郭内に屋敷を持つ高禄の侍たちが十人以上いる。吉原の地は、佳きところであった証左のような気がする。
合掌。
付記
吉原村に知行所を持つ生駒家給人たちの名を見て驚いた。高松城下郭内に屋敷を持つ高禄の侍たちが十人以上いる。吉原の地は、佳きところであった証左のような気がする。
合掌。
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