お早うございます。
朝食をいただきました。
献立は、ご飯、タラノメの吸い物、蕗の煮物でした。
旬を取り込んだ簡素な朝餉に、感動を覚えました。
合掌。
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2012年3月31日土曜日
2012年3月21日水曜日
土筆の天麩羅
一昨日、オツネントンボを探していたら、ふと、足元に、たくさんの土筆が生えているのに気付きました。採取用の袋がなかったので、小さな封筒に入るだけ採ってみました。帰途、知人に半分ほど差し上げたのですが、早速、天麩羅にしてくださいました。ご好意に感謝し、いただきました。美味しかったです。
合掌。
合掌。
2012年3月17日土曜日
初蜻蛉(First damselfly) 2012
合掌。
追記
因みに、昨年は、三月十五日が、初蜻蛉。然し、写真がピンボケだったので、十九日に再度山池へ参り、撮り直しています。
合掌。
春 山菜の季節
拙宅では、一ヶ月ほど前から、フキノトウが姿を現せています。今朝、四箇所で撮影してみました。この季節になると、私の心は落ち着かず、山へ山へと向かいたくなるのです。フキノトウ、タラノメ、スギナ等々、豊かな食材に出遭えます。なかでも、私の好物は、タラノメの吸い物です。タラノメの外側の赤茶色の皮、これを生理的食塩水程度の吸い物に加えるのです。得も言われぬ木の香りが致します。或いは、これを小さく刻み、醤油と味醂で炒めても良い酒の肴になります。タラノメそのものより、皮のことばかり記しました。
合掌。
合掌。
行き付けの山の食堂、春を迎え、店を開きました。未だ、山菜天麩羅を愉しむには早いですが、心の篭った手料理に、心が和みます。
合掌。
2012年3月12日月曜日
蒲生五郎兵衛郷治(上坂源之丞)
蒲生五郎兵衛郷治(上坂源之丞)、数十年に渡り、関心を持ち続けて来た我が父祖の一人である。昨日、幸運にも、彼の新たな消息を知る機会を得た。勉強会、研究会といった場に足を運ぶことのない私が、何故か出かけたのである。それも、長駆出張して・・・・・。
宇都宮匡児氏の「蒲生家分限帳諸本について」の講義は、まさに、私の望むものであった。奇しくも、そこで、五郎兵衛老が登場したのである。
講師の宇都宮匡児氏、伊予史談会会長の高須賀康生氏を始め、当日例会を準備された皆様に、記してお礼を申し上げる。
合掌。
写真の書冊は、嘗て(1987年10月26日)、私が子供たちの為に刊行した「氏郷記」である。
宇都宮匡児氏の「蒲生家分限帳諸本について」の講義は、まさに、私の望むものであった。奇しくも、そこで、五郎兵衛老が登場したのである。
講師の宇都宮匡児氏、伊予史談会会長の高須賀康生氏を始め、当日例会を準備された皆様に、記してお礼を申し上げる。
合掌。
写真の書冊は、嘗て(1987年10月26日)、私が子供たちの為に刊行した「氏郷記」である。
補遺
我が幼少の折、父祖の物語に再三にわたって登場したのが、蒲生氏郷候とその旗下の武将たちであった。蒲生氏は、我が父祖、上坂氏と古い縁戚関係にあり、その為か、候は、その家臣団に、上坂兵庫頭家系統の武将を何人か抱えたようである。上坂兵庫頭、上坂左文(蒲生郷可)、上坂源之丞(蒲生郷治)等である。 彼らは、氏郷候と共に、戦国末期の戦野を雄雄しく駆け抜け、亦、建設期に入った江戸初期にあっては、藩政の中枢を担った。斯様な彼ら上坂氏一門の活躍を詳細に伝える「氏郷記」の復刊は、小会がどうしても果たしたい夢であった。先日、史籍集覧を復刻した出版社の方にお伺いしたところ、明治十八年刊行の和綴本のリプリントならば、著作権にも抵触しないというお話であったので、少部数に限り復刊、小会の理想日本リプリントに収録することとした。併せて、小会図書収集部所蔵の「蒲生軍記」「蒲生氏郷記」「蒲生家侍帳」等の公開も進める所存である。
本書の復刊にあたっては、小会図書収集部所蔵本の電子データを使用した。用いたテキストは、明治十八年に、近藤瓶城氏が刊行した「史籍集覽」所収の「氏郷記」。その法量は、縦18.4cm、横12.4cm。その表紙には、紺色の和紙が使用されている。
合掌。
2012年3月6日火曜日
「長元物語」に見る観音寺香川氏
万治二年(1659年)成立とされる「長元物語(立石正賀著)」に、観音寺香川氏について、以下の記述がある。
合掌。
一 同国ノ侍観音寺石田砥川羽床長尾北條香西連々土佐ヘ降参ス (下巻三十九丁)
一 観音寺ヲ初トシ其外国持降参衆ハ知行前二不替下サレ年頭歳暮ノ式礼有之事 (下巻四十丁)
合掌。
一 同国ノ侍観音寺石田砥川羽床長尾北條香西連々土佐ヘ降参ス (下巻三十九丁)
一 観音寺ヲ初トシ其外国持降参衆ハ知行前二不替下サレ年頭歳暮ノ式礼有之事 (下巻四十丁)
2012年2月16日木曜日
観音寺、琴弾宮
神仏分離、廃仏毀釈という暴挙により、日本は破壊された。
我が郷里、観音寺も例外ではない。
古刹、観音寺の境内(十王堂付近)にあった武士団の墓所は、新たな神社施設の造営により、悉く破却され、嘗ての面影を失った。
これが宗教的行為というのであれば、斯様な宗教に価値は無い。
誠に残念なことである。
合掌。
観音寺全体図
左上
右上
左下
右下
琴弾宮全体図
左上
右上
左下
右下
宿居、梅腋の濱他
左上
右上
左下
右下
2012年2月14日火曜日
香川藤太夫庸昌(香河藤太夫庸昌)
香川藤太夫庸昌(香河藤太夫庸昌)、郷里が生んだ非凡な才の先人である。
冒頭の画像は、拙宅に伝わる彼の蔵書に記された署名を蒐集したものである。
現在、紐解いている『生駒記』の類本『讃岐拾遺』の中に、「庸昌覚書ニモ・・・」、「庸昌云」といった記述が垣間見れる。興味深いことである。
合掌。
追記
彼の屋敷は、嘗て、観音寺市一ノ谷郷土史研究会の方々から、一ノ谷中田井にあったと聞き及んでいる。亦、活字化された著作としては、「家密枢鑑」が知られている。
尚、手元にある香川系図の一つに、「・・・・・香川連枝千変万化ト合戦スル所味方一族武運拙ク皆悉ク落城シテ一族所々ヘ離散ス是時・・・・・香川長太夫ハ刈田郡中田井村ヘ落行・・・・・」との記述があり、香川藤太夫は、長太夫の末裔かとも考えられる。
合掌。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
先のスレッドで記した上坂氏と大西氏の数奇な出会い、本日、東京大学史料編纂所が公開しているデータベース上の二系図でも確認した。
上記文書第10分冊中の画像番号85左頁、画像番号89右頁に、其の事が記されている。
合掌。
注記
画像番号は、画像の左上に付されている。
合掌。
参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html
| 2 | 謄写本 | 2071.81-8 | 阿波国古文書 | 徳島県庁 |
上記文書第10分冊中の画像番号85左頁、画像番号89右頁に、其の事が記されている。
合掌。
注記
画像番号は、画像の左上に付されている。
合掌。
参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html
2012年2月6日月曜日
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
大西上野守(大西上野介)は、阿波を離れ、上坂丹波守の庇護を受け、晩年を観音寺で過ごしていた。
過日、阿波の友人から、上坂氏と大西氏の親交を記す文書がある旨、教示を受けた。当該文書は、「三好町史 第二章・中世の三好町 第四節・戦国時代の三好町 五・蜂須賀氏の入部と大西氏」中に記されていた。興味深い記述なので、以下、引用する。
阿波の友、そして、町史の著者、刊行者に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。
追記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。
http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
上坂氏については、以下のURLを参照されたい。
http://iewake.blogspot.jp/2012/06/blog-post_7627.html
合掌。
増補
昨日、池田町史上巻(173-174頁)を見る機会を得た。阿波の友人(大西氏末裔)に感謝する次第である。
以下、当該箇所をアップロードする。本書刊行者、執筆者の方々に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。
池田地方(三好郡地方)は、かつて、白地城大西氏に支配され、各地には大西一族が勢力を張り(前述の池田の宗安、井川の田野、昼間の片山等)、地侍、小領主在地支配体制ができあがっていた。ところが、長宗我部氏の大西侵入は、この古い支配勢力を一掃させてしまったのである。
元親軍が土佐へ退いた後の一種の空白状態について、その社会状況をうかがう事のできる史料は何もないが、井之内谷に隠せいしていた大西上野介の存在が大きく浮かびあがったことは確かであろう。各地に散らばっていた大西一族は井内谷へ集まって来たであろう。蜂須賀氏入国当初、支配勢力がもとのまま残った祖谷地方をはじめ剣山周辺の山分では、蜂須賀氏に対する激しい抵抗が起こった。大西氏の存在に蜂須賀氏が大いに気をつかったであろうことは十分想像される。
元親の讃岐平定後の上野介の動静は、「南海通記」「元親記」「長元記」等にも記されていないのは、前述のように、井内谷に隠せいしたためであろう。『阿波志』に「元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居住す。瑞雲公采地を賜ふ。辞して讃岐室本城(観音寺城)に至り、高阪氏(上坂氏)方に老す」とある。結局、蜂須賀氏から給地を賜ったが、やがて辞退し、讃岐の高阪氏(上坂氏)の食客となったというのであるが、辞退して牢人となった理由などには触れられていない。『阿波志』の編者が藩主をはばかって略したのであろう。
漆川大西系図に
天正十三年蓬庵公阿波国御領地之時、大西上野御尋あり、知行壱万石下さる筈で、板野郡勝瑞村に在り。其の後、蓬庵公の心意にそむき、牢浪して、讃州観音寺阪本城主(観音寺城主)高阪丹波守(上坂丹波守)に立寄り生涯を終る
と記されている。
山城谷大野系図には
蓬庵公御討人の後、上野御尋ねにて召出され、高三千石拝領。その後不足申立て御国を立退云々。高阪丹波守(上坂丹波守)へ便り、終に此所にて卒す。
とある。
大野素姓記にもこれに似た記事があるが、上野介の勢力の大きなことを察した蜂須賀氏は、一万石を給する約束で、長年の城下であった勝瑞に移し、待命の後三千石を給することにしたのであろう。阿波藩の初期の動揺が静まったとき、約束の一万石を三千石に減じたことに対して、上野介は謀抜するほどの力はなく、不満の気持を牢人することで表明する他なかったのであろう。
上野介の死亡は天正一八年七月九日、年四三歳といわれ、その墓は高阪氏(上坂氏)の墓地(観音寺十王堂内)にあったと伝えられる。その後、琴弾公園の整備によって所在不明になったということである(神仏分離後、琴弾八幡宮の施設が、山上のみならず山麓にも建ち、武士団の墓所は荒廃した)。
過日、阿波の友人から、上坂氏と大西氏の親交を記す文書がある旨、教示を受けた。当該文書は、「三好町史 第二章・中世の三好町 第四節・戦国時代の三好町 五・蜂須賀氏の入部と大西氏」中に記されていた。興味深い記述なので、以下、引用する。
阿波の友、そして、町史の著者、刊行者に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。
ところで、三好郡地方の状況はどうであったのであろうか。阿波国全体の平地と同じく、豪族という豪族はすべて崩壊していた。長宗我部元親の下で三好郡を支配していた大西上野守頼包は、すでに井内谷に隠棲して静かに余生を送るという姿が問題になるとは思えなかった。ところが土佐兵が土佐へ引き揚げた後には、三好郡各地へ隠れ住んでいた上野守の遺臣たちが続々と井内谷の上野守のもとへ集まって来た。時あたかも祖谷山や仁宇谷の土豪たちが蜂須賀氏に対し激しく抵抗している時であった。蜂須賀氏は使者を井内谷の上野守へ遺し、蜂須賀へ協力を依頼し、一万石を支給しようと申しでた。上野守にしても、この大きな時代の流れにさからうことの不可能を知っていたのでこの使者を丁重に迎え服従するほかはなかった。使著は、上野守が三好郡地方で極めて大きな力を持っていることを察知し、いったんは領地を召しあげたのであるが、三好郡地方で一万石を与えることを約束したのである。(漆川大西系図他)
ところが、やがて池田城が修築され、阿波九城の一つとして重臣牛田掃部尉一長が城番として入城し、前述のように、祖谷山などを除く他の地方では豪族の抵抗もなく支配が行われる見通しが立って来た。こうして上野守の立場は緻妙なものとなって来た。やがて蜂須賀氏から、一万石の約束であったが、改めて三〇〇〇石で召し抱えたいという申入れがあった。上野守は、家臣たちをそれぞれの本拠に帰し、自も三〇〇〇石を辞して牢人した。
上野守はやがて讃岐坂本城(讃岐観音寺城)に高阪丹波守(上坂丹波守)を頼りここで生涯を終わることになった。上野守は行年四三歳。時に天正十八年(一五九〇)七月九日のことだったという。その墓も、琴騨公園(観音寺十王堂跡地、神仏分離後、琴弾八幡宮境内)の改造で、その存在さえ不明になった。 (192ー193頁より、引用)
補遺
先述の友人の案内で、大西系図の一本を見る機会を得た。其処にも、以下のような記述があった。
「牢浪而寄立讃州観音寺坂本城主高坂丹波守(上坂丹波守)」
漆川大西系図
「天正十三年蓬庵公阿波国領地之時大西上野御尋有知行壱萬石被下筈、在板野勝瑞村其後背蓬庵公心意牢浪而立寄讃州観音寺阪本城主高阪丹波守(上坂丹波守)終生涯」(199頁より、引用)
補遺
先述の友人の案内で、大西系図の一本を見る機会を得た。其処にも、以下のような記述があった。
「牢浪而寄立讃州観音寺坂本城主高坂丹波守(上坂丹波守)」
付記
観音寺城は、別名、高丸城とも呼ばれていた。城址は、観音寺市殿町にある。尚、城址及び城主名が記された元禄時代の観音寺古地図が今日まで伝わっている。古地図中、「太閤様御與力 上坂丹波守 古城 今田地也 酒屋町ノ内 元和年中御亡」の記載がある。
合掌。追記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。
http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
上坂氏については、以下のURLを参照されたい。
http://iewake.blogspot.jp/2012/06/blog-post_7627.html
合掌。
増補
昨日、池田町史上巻(173-174頁)を見る機会を得た。阿波の友人(大西氏末裔)に感謝する次第である。
以下、当該箇所をアップロードする。本書刊行者、執筆者の方々に、心からのお礼を申し述べる。
合掌。
池田地方(三好郡地方)は、かつて、白地城大西氏に支配され、各地には大西一族が勢力を張り(前述の池田の宗安、井川の田野、昼間の片山等)、地侍、小領主在地支配体制ができあがっていた。ところが、長宗我部氏の大西侵入は、この古い支配勢力を一掃させてしまったのである。
元親軍が土佐へ退いた後の一種の空白状態について、その社会状況をうかがう事のできる史料は何もないが、井之内谷に隠せいしていた大西上野介の存在が大きく浮かびあがったことは確かであろう。各地に散らばっていた大西一族は井内谷へ集まって来たであろう。蜂須賀氏入国当初、支配勢力がもとのまま残った祖谷地方をはじめ剣山周辺の山分では、蜂須賀氏に対する激しい抵抗が起こった。大西氏の存在に蜂須賀氏が大いに気をつかったであろうことは十分想像される。
元親の讃岐平定後の上野介の動静は、「南海通記」「元親記」「長元記」等にも記されていないのは、前述のように、井内谷に隠せいしたためであろう。『阿波志』に「元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居住す。瑞雲公采地を賜ふ。辞して讃岐室本城(観音寺城)に至り、高阪氏(上坂氏)方に老す」とある。結局、蜂須賀氏から給地を賜ったが、やがて辞退し、讃岐の高阪氏(上坂氏)の食客となったというのであるが、辞退して牢人となった理由などには触れられていない。『阿波志』の編者が藩主をはばかって略したのであろう。
漆川大西系図に
天正十三年蓬庵公阿波国御領地之時、大西上野御尋あり、知行壱万石下さる筈で、板野郡勝瑞村に在り。其の後、蓬庵公の心意にそむき、牢浪して、讃州観音寺阪本城主(観音寺城主)高阪丹波守(上坂丹波守)に立寄り生涯を終る
と記されている。
山城谷大野系図には
蓬庵公御討人の後、上野御尋ねにて召出され、高三千石拝領。その後不足申立て御国を立退云々。高阪丹波守(上坂丹波守)へ便り、終に此所にて卒す。
とある。
大野素姓記にもこれに似た記事があるが、上野介の勢力の大きなことを察した蜂須賀氏は、一万石を給する約束で、長年の城下であった勝瑞に移し、待命の後三千石を給することにしたのであろう。阿波藩の初期の動揺が静まったとき、約束の一万石を三千石に減じたことに対して、上野介は謀抜するほどの力はなく、不満の気持を牢人することで表明する他なかったのであろう。
上野介の死亡は天正一八年七月九日、年四三歳といわれ、その墓は高阪氏(上坂氏)の墓地(観音寺十王堂内)にあったと伝えられる。その後、琴弾公園の整備によって所在不明になったということである(神仏分離後、琴弾八幡宮の施設が、山上のみならず山麓にも建ち、武士団の墓所は荒廃した)。
付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。
参考
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html
参考
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post_18.html
2011年12月30日金曜日
弘前藩主 津軽氏
石田三成公に関しては、徳川の御用学者に依る誹謗中傷により、定かな人物像が結べずにいるのではないだろうか。
幸い、筆者は、父祖が石田氏と近しかったこともあり、徳川史観とは無縁な環境で育った。
その私をして、驚天動地が如く震撼させたのが、朋友石田氏を庇い続けた津軽氏の事跡であった。
津軽氏初代、津軽為信公は、その嫡子、信建と共に、関ヶ原敗戦後、三成公の次男を大坂から己が領地へと向かわせ、その身を守った。然も、津軽氏は、それだけに留まらず、彼の子等(三成公の孫)に知行千石と知行四百石を与え、藩内でも枢要な地位に就けたのである。
これだけでも圧巻なのだが、津軽為信公は、その三男、信枚の正室に、辰姫(石田三成公の娘、然も北の政所が己が養女とした)を選んだのであった。
その後、信枚は二代藩主となったが、徳川家康は新たな婚儀を整え、娘を津軽氏に押し付けた。然し、二代藩主、信枚公は、己が世継に、辰姫の産んだ信義(石田三成公の孫)を選んだ。
誠にあっぱれ、徳川に対し、真っ向勝負を挑んだのであった。
その後、石田三成公の血脈は、今日まで絶えることなく続いた。津軽氏が、杉山氏(石田氏)を庇い続け、重臣として、藩の枢要な地位に留め続けたからであった。
これほどまで亡き友に尽くす津軽氏の姿に、私は、心からの感動を覚えたのである。
合掌。
追記
拙宅の書庫には、津軽氏に関する史料が多々散見される。参考までに、「愚耳舊聴記(津軽為信公に関する書冊)」、「信政公御意之筋聞傳集(津軽信政公に関する書冊)」の写真を掲げる。
合掌。
幸い、筆者は、父祖が石田氏と近しかったこともあり、徳川史観とは無縁な環境で育った。
その私をして、驚天動地が如く震撼させたのが、朋友石田氏を庇い続けた津軽氏の事跡であった。
津軽氏初代、津軽為信公は、その嫡子、信建と共に、関ヶ原敗戦後、三成公の次男を大坂から己が領地へと向かわせ、その身を守った。然も、津軽氏は、それだけに留まらず、彼の子等(三成公の孫)に知行千石と知行四百石を与え、藩内でも枢要な地位に就けたのである。
これだけでも圧巻なのだが、津軽為信公は、その三男、信枚の正室に、辰姫(石田三成公の娘、然も北の政所が己が養女とした)を選んだのであった。
その後、信枚は二代藩主となったが、徳川家康は新たな婚儀を整え、娘を津軽氏に押し付けた。然し、二代藩主、信枚公は、己が世継に、辰姫の産んだ信義(石田三成公の孫)を選んだ。
誠にあっぱれ、徳川に対し、真っ向勝負を挑んだのであった。
その後、石田三成公の血脈は、今日まで絶えることなく続いた。津軽氏が、杉山氏(石田氏)を庇い続け、重臣として、藩の枢要な地位に留め続けたからであった。
これほどまで亡き友に尽くす津軽氏の姿に、私は、心からの感動を覚えたのである。
合掌。
追記
拙宅の書庫には、津軽氏に関する史料が多々散見される。参考までに、「愚耳舊聴記(津軽為信公に関する書冊)」、「信政公御意之筋聞傳集(津軽信政公に関する書冊)」の写真を掲げる。
合掌。
2011年12月26日月曜日
2011年12月21日水曜日
鹿持川村
鹿持川村、何だか夢中になってしまった自分がいる。
昨日も亦、石井氏に同行、現地へと向かった。
城山、堀切山、古土居といった観音寺香川氏に係わる字名が全て残っていた。
そして、長法寺(長宝寺)跡には、多数の五輪塔があった。
合掌。
昨日も亦、石井氏に同行、現地へと向かった。
城山、堀切山、古土居といった観音寺香川氏に係わる字名が全て残っていた。
そして、長法寺(長宝寺)跡には、多数の五輪塔があった。
合掌。
参考
鹿持川関係拙稿一覧。
讃岐・観音寺城、土佐・鹿持川城
文書から見る観音寺香川氏の事跡 一
文書から見る観音寺香川氏の事跡 ニ
長宗我部地検帳 幡多郡入野郷鹿持川村
2011年12月16日金曜日
永納山城址
西條市と今治市の境付近にある古代の山城、永納山城址に登りました。時を経た遺跡は、専門家でない私には判断の付かないものでした。然し、尾根沿いの道は誠に心地良く、散策には最高の場所でした。眼に留まった石組みを撮影してみましたが、これが城の遺構かどうか、私には分かりません。ただ、とても風光明媚であり、亦、近付きやすい場所でもあるので、再訪を果たしたく思います。
合掌。
合掌。
以下、画像は、西條市教育委員会発行の現地説明会資料から転載させていただきました。関係諸氏に、記して、お礼を申し上げます。
合掌。
2011年12月14日水曜日
長宗我部地検帳 幡多郡入野郷鹿持川村
十一日の日曜日、石井氏と共に、再度、高知県へ参り、古文書の閲覧、或いは、大方町鹿持川村現地の調査を行った。結果、地検帳データを表計算に収め整理しないことには、一向に全体像が見えて来ないという結論に達した。為に、地検帳原本一丁ごとに記述を整理、データ化を開始した。以下にアップする画像は、その第一丁から第四丁に該当する部分である。
合掌。
追記
それにしても、特筆事項が多すぎる。為に、ルール作りが難しい。この作業は時間がかかる。
観音寺香川氏探訪の旅は、まだまだ、続く。
合掌。
補遺
本日(2012年2月25日)、表計算レイアウトを変更。
合掌。
追記
それにしても、特筆事項が多すぎる。為に、ルール作りが難しい。この作業は時間がかかる。
観音寺香川氏探訪の旅は、まだまだ、続く。
合掌。
補遺
本日(2012年2月25日)、表計算レイアウトを変更。
昼寝城(標高461m、比高220m)
引田城址に登った後、大多和に向かい、昼寝城址を探しました。生憎、道路が工事中、少し上に登った処にある迂回路から、多和神社方面へと走りました。三叉路に、右、昼寝城との案内板があったので、道なりに走行したのですが、ここでも、車両進入禁止の処置が取られていました。此処から暫くの所に登山口がございました。
合掌。
合掌。
2011年12月8日木曜日
引田城(標高82m、比高82m)
朝早くから長駆出張、引田城(標高82m、比高82m)に登りました。先日の西長尾城と比肩してみたかったからです。攻守両勢力の橋頭堡と要の城、互いに見事だと思いました。特に、引田城、想像以上の規模に驚きました。此の城も、一見の価値有りです。
合掌。
合掌。
この地図は、「香川県中世城館跡詳細分布調査報告(香川県教育委員会2003年刊)」より転載させていただきました。関係諸氏に、記して、お礼を申し上げます。
合掌。
城郭遺構、並びに案内板を写した写真をアップいたします。
然し、古城址だけは、カメラでは、その姿を描けないように思います。
合掌。
参考
追悼 生駒甚介(生駒甚助)正信公
合田學著 讃州大内郡志史料篇-1 生駒氏統治時代
生駒氏統治時代の引田
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