讃岐観音寺の夏祭りは、龍王さん、蛭子さん、住吉さん、角田さんと続く。此れは、旧観音寺町内に住まいした者であれば、脳裏にあることである。ただ、角田(かくでん)さんは、他のお宮のご祭神とは異なり、お隣、阿波の武将、大西氏に繋がるものである。
大西氏の地元、阿波では、同所のみならず他地域をも網羅した大西神社に関する研究が行われてきた。然し、何故か、観音寺の角田さん(大西神社)への言及がなされていない。これは不可解なことである。因みに、大西氏に関しては、大西上野介も、上坂氏を頼り観音寺に落ち延びていた事実が、大西氏諸系図に記されている。
地元で研究が進まないのであれば、此方でと思った。では、角田さんは、誰なのか。若しかして、上野介さんなのか。そう考えたこともあった。そして、今日、友人の手引きで、旧山城谷村(現三好市山城町)に、角田さんの事跡が伝わっていることを知った。
以下の文章は、「山城谷村史1208頁」からの引用である。
覚伝大明神
岩戸名都谷の原田芳一家の後の山林に俗に「カクデンサン」と称する塚がある。塚は川口黒川線(旧大野線)街道の路傍にあって、側に周囲三尺餘の椿の御神木がある塚の上には高さ約八寸屋根の長さ約一尺位の屋形型の石の御宮が束向に建立されている。右方に開く石の扉があって之を開けると中に覚伝大明神と刻まれている其の以外には文字はない、同家では御宮の上に木造の御須屋をこしらえ盆や旧節季などにはお燈明をあげお供物をしたり旧歳末には注連を張ったりして祭祀を行って居る。昔は婦女子で不浄な者は避けて通ったもので其の避け道が塚の下側に残っている。覚伝は大西角田であろう。覚養との関係については、確証はないが、大西氏の一族であり、本村に関係あったことは間違いないと思う。
上記引用文中に記されている原田家の方のお話に依れば、写真の塚を同家で数百年に渡りお守りをして来たとの由。亦、谷の奥には、角田屋敷の伝承もあるとのことであった。この角田さんと観音寺の角田さんの繋がり、考察してみようと思う。
合掌。
角田さんの塚の横には伊予へ抜ける古道が通っている。
角田さんの塚
角田さんの塚は、地図中央+の位置。地図は、Mapionからのトリミング
旧版「山城谷村史」収録地図からトリミング
付記
塚は、個人の敷地内にございます。調査等に関しては、それなりの配慮が肝要かと存じます。
合掌。
合掌。
参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
西讃府志に記されていた角田さん
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