2012年12月18日火曜日

田村左源太著「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項

田村左源太氏が著した「阿波大西氏研究」より、大西上野介の項を、画像データ(一部テキスト)にて、アップロードする。
本書は、昭和十二年八月二十五日、徳島県三好郡佐馬地村大字白地字本名321在住の田村左源太氏が執筆、ご本人自ら刊行されたものである。
優れた先達の研究に、心からの敬意を表するものである。
合掌。


天正十一年讃岐平定後上野守の動静に就ては元記、元親記南海治乱記等に何等の記事がない。唯阿波志に元親の阿波入り、上野守先鋒となり後井内谷に居任す、瑞雲公菜地を賜ふ。辞して讃岐室本城に至り、高阪上坂氏方にとあるのみ。元親の阿讃征討には懐刀として活動したる上野守も其後は極めて淋しくあつた。に人の一生ほど前知せられぬものはない。大西系図に「天正十三年蓬公阿波御領知之大西上野御尋有知行壹萬石被、在板野郡勝瑞村、後背蓬公之心意、浪而立寄讃州観音寺阪本城主高阪丹波守上坂丹波守生涯」とあり。山城谷大野系図には「蓬公御入之後上野御尋ニテ被召出、高三千拝領其後不足申御国ヲ立退云々、阪丹波守上坂丹波守へ便り終ニ此所ニテ卒」とあり。大野素姓記には「家政公當御入士ノ内ニテハ上野ヲ一番ニ召サレ云々、御へ不足出来退云々、讃州和田シテ、名主ヨリ家政公へ注進シテ、生駒讃岐守殿へ御頼成サレ和田ニテ討取、當國へ首ヲバ送ラル云々」とる。何れも多少の相違はあるが、蜂須賀対し不平で浪人せしといふ点は一致する。之を考察するに知行萬石の筈で領を去て、待命の後三千石拝領した、之が蜂須賀家へ不出来ちて浪人となりたる原因相違ない。何故に斯かる喰違出来たか想像するに蜂須賀氏入國當時山城谷、山等山間の動揺せる人民を鎮撫するために、上野守にへて優遇すべく言明して永年阿府たりし勝瑞に移り住ましめ、騒動鎮定後三千石を給したから上野守は之に憤慨して、浪人となの想像は雖も遠からずであらう。
 然るに何れの系図も藩主を憚りー萬石被をと簡単不平漏らしてゐるに相違ない。高阪丹波守上坂丹波守豊田郡の内萬石を領して観音寺町殿在城する公の力であるから、生駒氏にし託て討取るはない。矢張阿波志所載の如く高阪上坂氏の食客として生涯終わつたといであら。時に天正十八年七月九日年十三(系図)、墓は高阪上坂氏)墓地内にあつたが琴弾公園改造の際整理せられて其の所在を失ふ
(41-42頁)

付記
括弧内に、赤字にて、注記を施した。


参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
観音寺城については、以下のURLを参照されたい。  
http://kanonji.blogspot.com/2011/11/blog-post_3261.html
観音寺十王堂跡地については、以下のURLを参照されたい。 
http://kanonji.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
合掌。









2012年12月3日月曜日

西岡城址







大西上野介に係わる城として、西岡城がある。今日、現地の友の案内で出かけたが、高速道路の建設の為、城の所在を示す石碑のみ垣間見ることが出来た。城址は高速道路の開削で消滅したのだろうか。
合掌。


参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
覚伝大明神、或いは、角田(かくでん)さん
西讃府志に記されていた角田さん
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html
上坂氏顕彰会所蔵手写本 ……… 今一つの和本の世界へ

西讃府志に記されていた角田さん

阿波の渡辺氏より、「西讃府志」に角田さんに関する記述がある旨、連絡を受けた。早速、書庫に入り、当該書冊を紐解いてみた。確かに、豊田郡坂本郷下市浦の項に、大西角田についての記述があった。
以下、私が所蔵する「西讃府志」手写本と那珂多度同志會刊行本(1898年刊)の当該箇所をご紹介申し上げる。
合掌。








此れ等の画像データは、上坂氏顕彰会所蔵「西讃府志」第39巻「豊田郡坂本郷之部」より作成したものである。
以下、簡単に、書誌を記す。
  「西讃府志」は、丸亀藩が藩政末期に制作した藩領に関する地歴書である。内容は、今一つ詳細を欠く面もあるが、現存する香川県西部地域に関する纏まった記録として唯一のものである。本書は、執筆担当者の直筆本と数部の手写本が存在するのみであったが、明治三十一年、那珂多度同志會の手によって、活字本が刊行された。
  「西讃府志」成立の経緯等に関しては、上記活字本編集者、堀田璋左右氏の解説が詳しい。  ただ、残念なことに、この活字版は、堀田氏も記している通り、縮約本であり、「西讃府志」全てが印刷に付されたわけではない。為に、今日、その全貌を探ろうとすれば、丸亀市立図書館、鎌田共済会図書館、香川県立図書館等で架蔵されている手写本を参考にしなければならない。
合掌。





那珂多度同志會刊行本「西讃府志(1898年刊)」272頁。



参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
覚伝大明神、或いは、角田(かくでん)さん
上坂氏顕彰会所蔵手写本 ……… 今一つの和本の世界へ

2012年11月25日日曜日

炙り海苔と醤油、そして、熱々ご飯の邂逅

私の朝食は、ご飯、吸い物、焼き魚、玉子焼き、漬物、そして、炙り海苔が、定番です。特に、炙り海苔、此れは欠かせません。海苔を炙り八つに切る。その海苔に醤油を付け、それで熱々のご飯を巻いて食べる。
炙り海苔と醤油、そして、熱々ご飯の邂逅。この秘密を知っている日本人に幸いあれ。
合掌。

2012年11月24日土曜日

覚伝大明神、或いは、角田(かくでん)さん

連休中日の今日、阿波の友人、渡辺氏の誘いで、徳島県三好市へ出張した。池田の町並み散策のあと、昼食をいただいた。それから、図書館を訪れ、「山城谷村史」を紐解いた。同行の友の話では、同書中に角田さんの名があるというのである。
讃岐観音寺の夏祭りは、龍王さん、蛭子さん、住吉さん、角田さんと続く。此れは、旧観音寺町内に住まいした者であれば、脳裏にあることである。ただ、角田(かくでん)さんは、他のお宮のご祭神とは異なり、お隣、阿波の武将、大西氏に繋がるものである。
大西氏の地元、阿波では、同所のみならず他地域をも網羅した大西神社に関する研究が行われてきた。然し、何故か、観音寺の角田さん(大西神社)への言及がなされていない。これは不可解なことである。因みに、大西氏に関しては、大西上野介も、上坂氏を頼り観音寺に落ち延びていた事実が、大西氏諸系図に記されている
地元で研究が進まないのであれば、此方でと思った。では、角田さんは、誰なのか。若しかして、上野介さんなのか。そう考えたこともあった。そして、今日、友人の手引きで、旧山城谷村(現三好市山城町)に、角田さんの事跡が伝わっていることを知った。
以下の文章は、「山城谷村史1208頁」からの引用である。
覚伝大明神
岩戸名都谷の原田芳一家の後の山林に俗に「カクデンサン」と称する塚がある。塚は川口黒川線(旧大野線)街道の路傍にあって、側に周囲三尺餘の椿の御神木がある塚の上には高さ約八寸屋根の長さ約一尺位の屋形型の石の御宮が束向に建立されている。右方に開く石の扉があって之を開けると中に覚伝大明神と刻まれている其の以外には文字はない、同家では御宮の上に木造の御須屋をこしらえ盆や旧節季などにはお燈明をあげお供物をしたり旧歳末には注連を張ったりして祭祀を行って居る。昔は婦女子で不浄な者は避けて通ったもので其の避け道が塚の下側に残っている。覚伝は大西角田であろう。覚養との関係については、確証はないが、大西氏の一族であり、本村に関係あったことは間違いないと思う。
上記引用文中に記されている原田家の方のお話に依れば、写真の塚を同家で数百年に渡りお守りをして来たとの由。亦、谷の奥には、角田屋敷の伝承もあるとのことであった。この角田さんと観音寺の角田さんの繋がり、考察してみようと思う。
合掌。


角田さんの塚の横には伊予へ抜ける古道が通っている。

角田さんの塚

角田さんの塚は、地図中央+の位置。地図は、Mapionからのトリミング

旧版「山城谷村史」収録地図からトリミング




付記
塚は、個人の敷地内にございます。調査等に関しては、それなりの配慮が肝要かと存じます。
合掌。




参考
時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。
上坂丹波守と大西上野守(大西上野介)
西讃府志に記されていた角田さん
http://kanonji.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

2012年11月23日金曜日

宇都宮匡児氏の仕事

畏友、宇都宮匡児大兄から、ご高著が届いた。蒲生家中の分限帳に関する本邦で最初の系統だった研究である。
私は、この春、氏の講演を聴く為、長駆、松山の地へと出張した。私の生涯で稀有の一日であった。
宇都宮氏が、今後も、持てる能力を思う存分発揮し、その天賦の才で、非命に倒れた蒲生氏、そして、その家臣団の研究を進めてくださることを祈念して止まない。
合掌。




上にアップロードした画像は、宇都宮氏からいただいたご高著と、付された書信である。氏のご好意に、心からの感謝を捧げるものである。
合掌。



付記
以下の拙文は、宇都宮大兄にご送付申し上げた文面である。

拝復、
ご高著、ご恵与賜り、有難うございました。
ご芳志、心より、お礼申し上げます。
非命に倒れた蒲生氏、蒲生家中に心を寄せる者にとって、大兄の纏められたお仕事は、待ちに待ったものでした。
数百年の間、望まれ、実現されなかったことなのでした。
日本に人が居た。
そのことを確信し、亦、喜びに満ちた時間を共有させていただきました。
記して、感謝いたします。
合掌。




参考
蒲生五郎兵衛郷治(上坂源之丞)
http://kanonji.blogspot.jp/2012/03/blog-post_12.html

佐藤篤氏の仕事

先日、佐藤篤がご来訪くださり、親しく歓談する機会を得た。亦、その折、氏の著した数々の書籍をご恵与いただいた。記して、心からの感謝を捧げるものである。
讃岐に生まれ住まいする私にとって、香西氏は、決して遠い存在ではない。然し、私の脳裏に蓄積されている知識はあまりに微々たるものであった。今後、佐藤氏の導きにより、新たな世界が開けようとしている。
ただただ感謝。
合掌。


中世讃岐国人 香西氏の実体 


 中世讃岐国人 伝承世界の香西氏


 中世讃岐国人 香西氏の歴史


勝賀山城の景観・香東川の流路


讃岐国と菅原道真


以上、アップロードした画像は、佐藤篤氏よりいただいたご高著の数々である。
合掌。



参考
合田學著「讃州香西郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代」
合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」  
讃州生駒家家臣 植松氏
讃州生駒家家臣 香西氏
讃州生駒家家臣 佐藤氏

2012年11月19日月曜日

いつもの山の食堂で昼食


今朝は朝寝をいたしまして、ご飯が出来た頃だなと思った時、何と、電話、土建屋です。早起きしたかというので、そうだと答えると、嘘を言うなと申します。何と、縁側から外を見ると、フェンスの外から、此方を窺う巨躯が見えます。それで、朝食も摂らず、お山へと向かったのでした。
まずは、いつもの山の食堂で昼食です。私は、此処でいただく食事が大好きです。婆ちゃん子だった私が、幼少時よりいただいて参った懐かしい手料理を出してくださるからです。

合掌。

2012年9月29日土曜日






昨日は、伊予三島から富郷へ入り、山の食堂で昼食をいただき、午後から、住友の森から冠山方面へと散策したのでした。ただ、時間の都合もあり、本格登山には到りませんでした。
標高千メートルを越えた辺り、リンドウが満開でした。
大兄、良い一日をお過ごしください。
合掌。

2012年9月4日火曜日

本日、増補しました。


時を遡ること四百二十数年、阿波の武将、大西上野守(大西上野介)は、観音寺へ逃れ、其の生涯を終えた。


http://kanonji.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html

本日、上記拙文を増補致しました。
合掌。

2012年8月28日火曜日

山の食堂

一昨日、昨日と、二日続きで、山の食堂へ参りました。大好きな山菜天麩羅定食をいただく為です。此処には、未だ古き良き日本の心、そして味覚が残っています。一品一品丁寧に作られた料理、頭が下がります。お祖母ちゃん子だった私には、とても懐かしい料理なのです。
合掌。


2012年8月23日木曜日

上坂眞信著 生駒家家臣団ノ解体

上坂眞信著「生駒家家臣団ノ解体」から、一部を引用、掲載する。本稿は、過日、テキストデータにて公開したが、使用ソフトの関係から、原文のレイアウトが崩れてしまった。依って、本日、画像データにて、再掲する。
合掌。












『地方知行の士に見る家中騒動に於ける進退』
知行500石以上の上級家臣では先退の士数が多く、400石以上では双方の士数が同数となる。この事実から、生駒家騒動と呼ばれる家中の内紛が、藩を真二にした大掛かりなものであったことが伺われる。


2012年6月12日火曜日

昔懐かしい味

渓流へ向かう途上、山の食堂で昼食をいただきました。この食堂は、私のお気に入りです。山菜天麩羅も美味しいし、添えられた小鉢も、皆、昔懐かしい味です。
合掌。





沢登りを愉しみました。お目当ての蜻蛉は気温が低かったせいか、一頭確認したのみです。
合掌。