こんなことで、志摩の地に御鎮座されていた猿田彦大神社も消されてしまったのです。残念で堪りません。
自ら保守と任じる人には、是非とも知っておいていただきたい歴史の闇です。
合掌。
昭和七年に刊行された久留米市誌上巻から、久留米市の実例を引用いたします。画像三葉です。世に廃寺という言葉は聴きますが、廃社という表現が、此処で使われています。合併だけじゃなく、廃社の処置により、神様が消されているのです。驚くべきことが行われていたのです。
官僚が、新政府内で目立つ手柄を立てたいと思い付き、一声吼えたら、日本中の木っ端役人が飛び付き、遠吠えの大合唱。結果、夥しい社が消されてしまったのでした。明治新政府のこの政策は、日本人の精神世界を破壊したといっても、過言ではないでしょう。
合掌。
付記一
源平の戦、承久の変、南北朝の戦等々による戦勝者の敗者領有地への進駐、そして、太閤検地刀狩に伴い鉢植え武士化された武士団の全国規模での移動により、開発領主とされる人々が、その故地(本貫地)に住まいし続けることが困難な時代になりました。為に、勝者の移動のみならず、敗者も、亦、動いたのでした。それが、つい最近までの日本の歴史でした。
こうした日本に於いて、近在に、ご鎮座される神様に想いを馳せても、なかなか、歴史を辿れないのではないでしょうか。特に、明治の神社整理(神社合祀・神社廃社)では、神様そのものまで、数多、消されてしまいましたので、時空間を辿る術も、過半は閉ざされてしまっているのでした。
昨日でしたか、友人が、白髪神社に関して、記されていました。白髪神社については、僕も、赤松氏調査の為、中世播磨の古文書を紐解く際、出逢っています。旧来の僕ならば、当該地域の地誌の類から、その社記等を探索するのですが、今回は、新撰姓氏録を紐解いてみました。
合掌。
付記二
先に、上層階級である開発領主(武士)の本貫地からの移動について記しました。父祖の故地から離れ、氏の神からも遠ざかってしまったのでした。それに対し、百姓層は、豊臣政権から土地所有を認められた代わりに移動を禁じられました。この数百年、近在の神祠に奉仕したのは、彼らだったのでしょう。その彼らが崇めた神祠が、明治政府の官僚の無茶な政策により、破壊されたのでした。現代社会の人倫崩壊、社会秩序瓦解の遠因は、この辺りにあるかと想うのです。同時に、たった一度の敗戦と占領軍の検閲で、此処までも奈落してしまった日本社会、余りにも脆弱でした。内なる支えを失った侭の人々を、明治政府の強権が引きずった結果ではなかったのかとさえ思うようになりました。神社整理(神社合祀・神社廃社)の影響は、大きいです。
合掌。
参考
猿田彦大神社(猿田彦社) 佐美長神社 志摩国答志郡磯部村恵利原
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