2016年11月10日木曜日

我拝師山 延命院 曼荼羅寺

金毘羅参詣名所図会 第三巻より

中世末の騒乱を経、近世を迎えた讃岐には、豊臣系の新知大名が、赴任して来た。然し、仙石氏、尾藤氏は、島津攻めの不始末で、それぞれ一年で讃岐の地を去り、新たに生駒氏が、太閤与力・上坂氏等と共に、讃岐を領知した。
戦乱で灰燼に帰していた延命院曼荼羅寺に於いても、生駒宗家、そして、家臣の三野氏等の尽力により、文禄年中(1593-96年)、新たに堂宇が建立され、九石三斗の寺領が寄進された。その知行所は、讃州御国中村切高惣帳に依れば、多度郡吉原村に設定されていた。曼荼羅寺にとって、文字通り、近世の幕開けであった。
合掌。

付記
吉原村に知行所を持つ生駒家給人たちの名を見て驚いた。高松城下郭内に屋敷を持つ高禄の侍たちが十人以上いる。吉原の地は、佳きところであった証左のような気がする。
合掌。


合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より、多度郡吉原村



参考
以下、金毘羅参詣名所図会第三巻に収録されている我拝師山延命院曼荼羅寺の項、全てアップロードする。
合掌。





2016年11月8日火曜日

芋畑の古跡

木版画を一葉(「金毘羅名所図会」所収「芋畑の古跡」)、お届けいたします。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhN6GQKU2iO0s1STCuh4JwgsO_Y8hFjJPzwkrMeFcti-VVp0CxldvliTTHkm9s5U0a3ak6fKPfHG4TStON8UXVXTIAJgOM8ZSEM-4Rn9CadHJ9wEbo8kU7e9sdy0EYEZ34NGMIb3wht_f0/s1600/20161107_-1958536357.JPG

月見よといもの子どもがねいりしを起しに来たか何か苦しき 西行上人
合掌。




金毘羅名所図会 解題
讃岐の地には、「こんぴらさん」として親しまれている「金刀比羅宮」がある。「讃州御国中村切高惣帳(寛永十六年成立)」によれば、古くは、「金毘羅」と称されており、別当を、松尾寺が勤めていた。上記の生駒家奉行文書は、生駒宗家が寄進した金毘羅領、後世、俗に言う御朱印地 三百三十石の内訳を、金毘羅領、二十三石五斗、松尾領、三百六石五斗と記している。(詳細は、合田學著「讃州御国中村切高惣帳」を参照されたい。)
国主、生駒氏の寺社への深い崇敬は、後の国主たちにも受け継がれていった。そして、維新の動乱、明治政府の樹立、廃仏毀釈が起こるまでは、讃岐の寺社には、平穏な日々が続いたようである。本書、「金毘羅参詣名所図会」は、そのような神仏分離以前の讃岐の寺社の姿を伝えてくれる史料として貴重である。
ただ、本書の著者は、執筆に際し、二ヶ月しか当地に滞在しておらず、細部に渡って、自身の見聞を記したとは言えないかもしれない。むしろ、当時存在したであろう文献資料を猟渉、執筆の参照にしたと考えた方が無難であろう。然し、何はともあれ、江戸期の人によって描かれた当時の讃岐の姿は、現代に生きる我々にとっては、随分と珍しいもので、参考になる。
本書は、六巻より構成されており、弘化四年(1847年)の出版である。
著者は、暁鐘成。「西国三十三所名所図会」、「摂津名所図会大成」、「淡路国名所図会」等の著作がある。絵師は、浦川公佐。
テキストの法量は、全六冊共に、縦25.0cm、横17.5cm。表紙には、赤色の和紙が使われている。
合掌。

2016年11月6日日曜日

サイクリング

サイクリングは愉しい。
風を感じ、思うが侭。
合掌。






2016年10月24日月曜日

秋桜 (コスモス)

秋桜(コスモス)、この淡い色味に、僕は、心惹かれます。
合掌。






2016年10月9日日曜日


MTBで、約三十キロほど走り、帰途、夕日に気付き、其の侭、海へ向ったのでした。
お届けいたします。
合掌。

2016年10月8日土曜日

奇妙な雲





奇妙な雲に出逢いました。雲好きの方には、珍しくないかもしれませんが・・・・・。
合掌。

2016年10月2日日曜日

天魔鬼神も怖れをなして 仰ぎ敬う大将軍は 藤の裾濃のおん着長に 赤地錦の垂衣を召し さすが美々しく出で立ち給う

天魔鬼神も怖れをなして 仰ぎ敬う大将軍は 藤の裾濃のおん着長に 赤地錦の垂衣を召し さすが美々しく出で立ち給う


邦画「天と地と」の中で、槍を持って歌いながら舞う、柿崎和泉守が素敵でした。
合掌。

2016年9月29日木曜日

仔猫の恋 邦画「陽だまりの彼女」



先日、邦画「陽だまりの彼女」を見ました。心に残った映画でした。仔猫の恋を描いたものでした。猫は、九回生きるというのです。生まれ変わる。仔猫が自分を助けてくれた少年に逢いたくて、無理をして人になったのだけれども、寿命は猫の侭だった。それで、結婚したものの、あっという間に、亡くなってしまう。そして、猫も人も、出逢ったという記憶さえ忘れてしまう運命。だけど、ある日、亦、二人は出逢ったのです。彼女の首には、嘗ての結婚指輪の付いたネックレスが・・・・・。
どんな形であれ、生まれ変わった時に、亦、逢えて佳かったねと、お互いが思える生き方が出来れば佳いなと思いました。
合掌。

仔猫と麒麟


昔々、娘と二人で、仔猫を飼いました。家族には内緒で。建物の関係で、誰にも気付かれない一坪くらいの空間があったのです。文鳥がいたから、屋内で飼えない窮余の策でした。一人でいる仔猫の為、保育園に通っていた娘が、猫の段ボール箱に、いっぱい絵を描きました。猫の横の麒麟さん、この縫い包み、未だ、娘の使っていた部屋にあります。
合掌。

2016年9月16日金曜日

生駒藩政史に関する合田學の著作、編纂書等々



拙著「讃州御国中村切高惣帳」は、御国中村切高惣帳という土地台帳と生駒藩組分侍帳という分限帳を繫いで構成したものでした。
1998年に初版を刊行した「讃州御国中村切高惣帳」に於いては、各郷村ごとの給人氏名を石高順に表記しています。そして、「讃州御国中村切高惣帳表計算篇」では、原文書表記の順に戻しました。その表計算データを元に、「宇足郡志」等、十三ほど刊行した讃岐全域に渡る郡志では、各地域をグラフ化致しました。用例として、宇足郡の法勲寺を添付致します。
こうした基礎的な作業を進めていく中で、当時の武将たちの心性に想いを馳せ、歴史と幾許かの繋がりを得てきたのが、僕の仕事でした。
地名と給人名と石高、これだけの表記から、様々な歴史事象を組み立てていくことが可能でした。この後、この仕事から、二十冊を越える新しい著作が誕生いたしました。古き佳き時代でした。
合掌。



付記
古文書講読の際、どうしても読めない箇所がございました。その夜、犬を連れて、公園を散歩しました。大きな楠がございます。そこが嘗ての一族の墳墓でした。神仏分離の際、移転を余儀なくされました。そこを通りかかった時、突風が吹き、大きな犬が尻尾を巻いてしまいました。その夜、甲冑を着た父祖が夢に現れました。そして、眼が醒め、書斎に行くと、綴じた筈の文書の懸案の箇所が開かれており、僕は読むことが出来ました。そうした経緯を経て誕生した書籍です。
合掌。 合掌。
 合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より

 合田學著「讃州御国中村切高惣帳表計算篇」より

合田學著「讃州宇足郡志」より



生駒藩政史に関する合田學の著作、編纂書等々

合田學著 生駒家給人帳、生駒家知行帳、寛永期讃岐の知行形態(第四版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳、生駒家寛永知行帳(第三版)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記、校訂者補遺、デ-タベ-ス編(第四版)
上坂眞信著 生駒家家臣団の解体(第二版)
合田學編纂 生駒家家臣分限ノ記 テキスト、グラフ篇-1(第二版)
合田學編纂 生駒家家臣分限ノ記、五種の生駒家侍帳に於ける記載の異同
合田學編 生駒藩組分侍帳(第三版)
合田學著 生駒家襲封期高松城下家臣団屋敷図 郭内編
上坂眞信著 寛永年中讃州諸郡知行主総覧(第三版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 表計算篇(第三版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 表計算篇(第二版)
合田學著 寛永年中讃州生駒家知行帳 グラフ篇(第三版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 分析篇 郡-Ⅰ
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 分析篇 郡-Ⅱ
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 分析篇 郡-Ⅲ
合田學著 四種の生駒家侍帳に於ける記載の異同、生駒宗家直轄地一覧(第二版)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記 表計算篇-1 五十音順(第二版第二刷)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記 表計算篇-2 組分(第二版第二刷)
合田學著 生駒家家臣分限ノ記 表計算篇-3 給知高順(第二版第二刷)
合田學著 新稿 讃岐に於ける新田開作
合田學著 讃州生駒家に於ける給人知行の概要(第四版)
合田學著 讃州御国中村切高惣帳 グラフ篇
合田學著 寛永期讃岐の新田開作
合田學著 生駒宗家寄進寺社領の存在した寛永期讃岐の郷村
合田學著 明知行の存在した寛永期讃岐の郷村
合田學著 讃州大内郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州寒川郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州三木郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州山田郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州香東郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州香西郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州南條郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州北條郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州宇足郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第四版)
合田學著 讃州仲郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第四版)
合田學著 讃州多度郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州三野郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第三版)
合田學著 讃州豊田郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代(第四版)
合田學著 讃岐に於ける新田開作(第二版)

2016年8月31日水曜日

ある日の夕焼け











先にアップロードした「海からの風」と撮影日が前後する写真群です。
合掌。

2016年8月30日火曜日

海からの風







僕は、海から吹いて来る西風に育てられました。この風が吹いてくると、元気を取り戻します。
合掌。

2016年8月28日日曜日

興昌寺

興昌寺、生駒藩政期には、豊田郡坂本村にて、寺領六石六斗を給されていた。この石高は、生駒藩によって、特に撰ばれ、地方知行を得ていた、讃岐国内二十五ヶ寺の内、十六番目に位置する。近隣の萩原寺が三石九斗七升、持寳院本山寺が石五斗四升、観音寺にいたっては皆無であった事実を考慮すると、その厚遇ぶりが理解できるかと思う。
その
興昌寺が、後の京極藩政後期に編纂された西讃府志では僅かな記述しか見られず、金毘羅参詣名所図会にいたっては記されてもいない。
こうした事実を前提に、生駒氏統治下に於いて、何故、興昌寺が厚遇されていたのかを考察するのが、本稿の目的である。
合掌。



生駒藩政期の地方知行を物語る「讃州御国中村切高惣帳」によると、興昌寺の所領は、豊田郡坂本村に設定されていた。興昌寺の他、市原惣左衛門(奉行)、坂本甚太夫(郡奉行)、佐久間十郎右衛門(石崎若狭組)、本蔵入(生駒宗家直轄地)の名が散見される。
讃州御国中村切高惣帳では、坂本村、観音寺村は、別途記載されていたこと、特筆しておく。


 合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より

合田學著「讃州豊田郡志」より



生駒家家臣分限ノ記に見る興昌寺である。三野郡、豊田郡の寺社領記載部分をアップロードする。豊田郡では、興昌寺と萩原寺のみが、寺領を給されていたことが分かる。



合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」より




参考


生駒家家臣分限ノ記に名が記されている寺
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2016/08/blog-post_20.html

生駒家家臣分限ノ記に見る三野郡豊田郡に於ける寺社領
http://kanonji.blogspot.jp/2016/08/blog-post_23.html



本稿、未完。

2016年8月26日金曜日

帝国陸軍第八師団(弘前) 諸隊の配置図

今夕、違った分野の著作をしたり編輯業務に携わっていた書斎に立ち寄りました。理由は無いのです。ただ何となく。すると、畳まれた図面のようなものが眼に留まりました。広げてみると、帝国陸軍第八師団(弘前)諸隊の配置図でした。
今、弘前市史資料編四を紐解いていますが、同じ絵図は収録されていませんでした。参考までに、アップロード致します。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjCuCC1lVg1aiRdmuVjSXRffwu9RQLkDMvKk4aaCee8_cSO55li8PJa7xU3AbRVS9HIGpWuhyMi4lwarBLIu8QJOENJHmc4d0SkL7i_rrl0eYdDRCQCm_GrnglcGawpmbI5qVFFd6Pysy4/s1600/IMG_0001t.jpg

合掌。


2016年8月23日火曜日

生駒家家臣分限ノ記に見る三野郡豊田郡に於ける寺社領

下高瀬村
三石  下高瀬八幡


上高瀬村
三石  楠井明神領 <新田大明神>
一石  楠井権現領
一石  楠井薬師領



勝間村
二石  柞原寺


神田村
四石七斗  神田宮 <大水上神社>


財田上村
二石七斗三升  財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗  財田上龍王領
一石四斗  財田上厳嶋之宮



財田中村
二石一斗  財田中乗覚院 <高橋氏>


財田西村
一石五斗四升  財田西天神領


本山之郷
六石六斗  本山大明神 <高良大明神>
一石五斗四升  持寳院 <本山寺>


笠岡村
三石  笠岡宮領 <宇賀大明神>


詫間村
四十石  けんぎょう與 <寳壽院神宮寺>


仁保村
三石三斗  仁保宮領 <賀茂大明神>
一石  覚城院


萩原村
三石九斗七升  萩原寺


坂本村
六石六斗  興昌寺



付記
寺社領の他、御初尾米として、
切米十石が、萩原寺に給されている。 

2016年8月12日金曜日

柞田郷 柞田荘 柞田庄

観音寺古地図

教西物語

合田學著「讃州豊田郡志  史料篇-1」

合田學著「讃州豊田郡志  史料篇-1」



一昨日、出先で、柞田に関する古い記述が無いかとの質問を受けた。柞田は、近世初頭、吾が母方の父祖、上坂氏(太閤与力・観音寺城主)が、2170石という、当時としては稀有な一括知行を行っていた地域であった。佳い機会であるので、鎌倉期以降の柞田の名が記された文書を幾つかご紹介申し上げることとする。
合掌。



01  續左丞抄

讃岐柞田荘四至膀示注文   建長八年(1256年)八月廿九日


續左丞抄 第一

續左丞抄 第一



02  續左丞抄

讃岐柞田荘實検田畠在家目録   建長八年(1256年)八月廿九日


續左丞抄 第一

續左丞抄 第一



03  兼仲卿記(勘仲記)

祝部成顕重申状




04  續群書類従の神祇部巻第五十二

元應元年大社小比叡社社家注進状




付記
01から04に関する簡便な講読手段として、鎌倉遺文収録の活字化史料を紐解くことをお奨めする。
第11巻-文書番号8025、第11巻-文書番号8026、第20巻-文書番号14963、第35巻-文書番号27295。

第20巻-文書番号14963



05  讃州府志

藤原家資の海賊捕進の功に言及した藤尾城の項に、柞田大夫村重の名が見えけられる。



06  九条家文書

入道前摂政藤原道家の惣処分を伝える文書中に、讃岐国柞田庄の名が記されている。



07  根岸文書

細川顕氏書簡に、日枝社領讃岐国柞田荘雑掌の記事が見える。



08  細川文書

足利義満書簡中に、柞田地頭職のことが記されている。



付記
05から08に関する簡便な講読手段として、大日本史料収録の活字化史料を紐解くことをお奨めする。
第5編20巻122頁、第5編34巻125頁、第6編11巻569頁、第7編4巻517頁。

第5編20巻122頁



09  細川文書

細川常久(頼之)書状に、柞田殿(頼有)と記されている。



付記
09に関する簡便な講読手段として、南北朝遺文の活字化史料を紐解くことをお奨めする。
第6巻-文書番号5252

第6巻-文書番号5252



8.18、全体の構成を変更、そして、史料09を増補した。
合掌。