2016年6月21日火曜日

われ男の子 意氣の子名の子 つるぎの子 詩の子戀の子 あゝもだえの子

われ男の子 意氣の子名の子 つるぎの子 詩の子戀の子 あゝもだえの子

われをのこ いきのこなのこ つるぎのこ しのここいのこ ああもだえのこ


昨夜、ふと、上記の歌が、脳裏に浮かんだ。
与謝野鉄幹氏の歌集「むらさき」に収録されていた作品である。
合掌。



2016年5月12日木曜日

ショウジョウトンボ(Crocothemis servilia mariannae)の登場

Crocothemis servilia mariannae

ショウジョウトンボ(Crocothemis servilia mariannae)、彼こそが、名実共に、赤蜻蛉である。然るに、秋に胴体のみ赤くなるアカネ科の蜻蛉を指して、識者は赤蜻蛉という。随分と不思議なことである。
合掌。

付記
拙文、及び、写真は、過日、僕の蜻蛉のブログにアップロードしていたものです。
合掌。

2016年5月6日金曜日

和泉守兼定を愛す人なりき死に急ぎ死にてゆきし人なりき

五月十一日、土方さんのご命日です。
明治二年五月十一日、函館の五稜郭での戦闘で、戦死なさいました。
合掌。



和泉守兼定を愛す人なりき死に急ぎ死にてゆきし人なりき
(土方歳三、明治二年五月戦死)




歌は、村上一郎氏の歌集「撃攘」から、引用させていただきました。
合掌。

2016年4月12日火曜日

高良社と石崎若狭守

一昨日は、元気を失っていました。為に、高良の社へ参詣、社頭で佇立し、暫く時を過ごしました。それから、近在の図書館へ参りました。そして、何故か、群書類従がある書架の上部を見上げたのです。そこには、古事類苑が並んでいました。この叢書は数十冊あり、然も各冊が千七百頁を越える大冊です。その内に、神祇部四冊があったのです。僕は、その四冊目の1498頁に、高良社の名を見出しました。嬉しいサプライズでした。読み進んでいくと、日頃より近しく思っていた石崎若狭守の名が記されていました。この人は、筑後田中藩の高禄の侍(3650石)で、田中家改易後は、讃岐生駒藩の家老(3000石)を務めています。生駒家家臣分限ノ記を紐解くと、旗下の侍たちの掌握力に優れた立派な武人であったことが分かります。
ここに於いて、当地の高良の社を支えてくださっていた新たな人脈が浮かび上がりました。嬉しいサプライズでした。一気に元気が戻りました。
僕は、昨年の九月から、縁あり、高良社に関して学んでいますが、その折々に、神様のお助けを感じて参りました。きょうも、お導きがございました。有り難いことだなと思います。
合掌。 


筑後田中藩時代の石崎若狭守

古事類苑第九冊神祇部九十七

田中吉政家中知行高

田中家臣知行割帳



讃岐生駒藩時代の石崎若狭守

合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」

合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」

合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」

 合田學著「生駒家給人帳、生駒家知行帳、寛永期讃岐の知行形態」

 合田學著「讃州生駒家に於ける給人知行の概要」

 合田學著「讃州生駒家に於ける給人知行の概要」

合田學著「讃州生駒家に於ける給人知行の概要」

2016年4月5日火曜日

神社整理(神社合祀・神社廃社) その一

昭和十七年に刊行された「神社局時代を語る懇談会速記」なる書冊を紐解いてみました。書冊中、神社の合併なる章がございました。読み進めて行く内、僕は言葉を失いました。こんないい加減な政策立案でもって、数多の社を破壊、日本人の心を蹂躙したのかと思うと、怒り心頭です。然し、この弁士は、平然と何事も無かったかのような語り口です。何の責任も感じていません。敢えて記せば、新政府官僚の点数稼ぎということです。
こんなことで、志摩の地に御鎮座されていた猿田彦大神社も消されてしまったのです。残念で堪りません。
自ら保守と任じる人には、是非とも知っておいていただきたい歴史の闇です。
合掌。








昭和七年に刊行された久留米市誌上巻から、久留米市の実例を引用いたします。画像三葉です。世に廃寺という言葉は聴きますが、廃社という表現が、此処で使われています。合併だけじゃなく、廃社の処置により、神様が消されているのです。驚くべきことが行われていたのです。
官僚が、新政府内で目立つ手柄を立てたいと思い付き、一声吼えたら、日本中の木っ端役人が飛び付き、遠吠えの大合唱。結果、夥しい社が消されてしまったのでした。明治新政府のこの政策は、日本人の精神世界を破壊したといっても、過言ではないでしょう。
合掌。






付記一
源平の戦、承久の変、南北朝の戦等々による戦勝者の敗者領有地への進駐、そして、太閤検地刀狩に伴い鉢植え武士化された武士団の全国規模での移動により、開発領主とされる人々が、その故地(本貫地)に住まいし続けることが困難な時代になりました。為に、勝者の移動のみならず、敗者も、亦、動いたのでした。それが、つい最近までの日本の歴史でした。
こうした日本に於いて、近在に、ご鎮座される神様に想いを馳せても、なかなか、歴史を辿れないのではないでしょうか。特に、明治の神社整理(神社合祀・神社廃社)では、神様そのものまで、数多、消されてしまいましたので、時空間を辿る術も、過半は閉ざされてしまっているのでした。
昨日でしたか、友人が、白髪神社に関して、記されていました。白髪神社については、僕も、赤松氏調査の為、中世播磨の古文書を紐解く際、出逢っています。旧来の僕ならば、当該地域の地誌の類から、その社記等を探索するのですが、今回は、新撰姓氏録を紐解いてみました。
合掌。


付記二
先に、上層階級である開発領主(武士)の本貫地からの移動について記しました。父祖の故地から離れ、氏の神からも遠ざかってしまったのでした。それに対し、百姓層は、豊臣政権から土地所有を認められた代わりに移動を禁じられました。この数百年、近在の神祠に奉仕したのは、彼らだったのでしょう。その彼らが崇めた神祠が、明治政府の官僚の無茶な政策により、破壊されたのでした。現代社会の人倫崩壊、社会秩序瓦解の遠因は、この辺りにあるかと想うのです。同時に、たった一度の敗戦と占領軍の検閲で、此処までも奈落してしまった日本社会、余りにも脆弱でした。内なる支えを失った侭の人々を、明治政府の強権が引きずった結果ではなかったのかとさえ思うようになりました。神社整理(神社合祀・神社廃社)の影響は、大きいです。
合掌。


参考
猿田彦大神社(猿田彦社)  佐美長神社  志摩国答志郡磯部村恵利原

2016年4月3日日曜日

琴弾山の高良社

金毘羅参詣名所図会を紐解いていて、琴弾山山頂に、高良の社が描かれていることに気が付いた。琴弾宮本社の左である。現在、境内社としてある位置とは全く異なるし、社殿の規模も違う。この事実を、お伝え致したく、稿を準備した。
因みに、倉富了一著「高良山物語」では、筑後の高良社は、玉垂宮、或いは、琴弾宮と称されていたと記されている。
然らば、八幡宮勧請以前、当地の琴弾山には、高良社が、既に、ご鎮座されていたのだろうか。
合掌。


金毘羅参詣名所図会

金毘羅参詣名所図会

金毘羅参詣名所図会

金毘羅参詣名所図会

倉富了一著「高良山物語」


参考
元来、縁起は、体制固めが終わった頃に成立する。だから、以後は、そうなのだろうけれど、以前がそれであったとは限らないと思う。
絵縁起に描かれている琴弾山山上、縁起成立以前を探る方途は無いものだろうか。高良の社のことが気に懸かる。
合掌。







2016年4月1日金曜日

外宮 内宮 伊雜宮 猿田彦大神社

外宮、内宮、伊雜宮、猿田彦大神社の高解像度画像をアップロードする。和装本の左右頁の傾きを修正、亦、余白部分を削除、そして、合成した。
合掌。




  



2016年3月17日木曜日

蕪津大明神(五所明神) その二





長駆出張、善通寺へ参りました。
五所明神の所在を確認、参詣いたしました。
合掌。

2016年3月9日水曜日

蕪津大明神(五所明神) その一





金毘羅参詣名所図会第二巻に描かれている善通寺境内を具に確認した所、過日は見出すことが適わなかった五所明神の文字が、画像左上に描かれている大楠の内に現れました。嬉しいサプライズでした。
以下、五所明神について記した善通寺文書です。縁者の松原秀明先生が、二十七年前、翻刻したものです。1989年11月28日に、松原先生からいただいたと、書冊の末尾に記していました。
合掌。
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天明六年午二月 津森組多度郡村々寺社帳
五所明神二社 誕生院伽藍ノ内ニ在 別當善通寺村誕生院 北一社合殿蕪津大明神、大麻大明神、南一社合殿大歳大明神、雲気大明神、廣濱大明神 社人入用之節ハ行事冨之進罷出相勤申候
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文政六癸未歳五月改 誕生院並末寺中構之寺社帳
五所明神二杜 伽藍之内ニ在 誕生院構役寺観智院
  北一社蕪津大明神、大麻大明神、大歳大明神合殿 南一社雲気大明神、廣濱大明神合殿 但「正徳三巳寺社御改帳」ニ者無御座候得共、「寳暦九卯神社帳」ニ載居申候。勧請年暦者相知不申候。社人入用之節者大握大和相勤申候
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追記
蕪津大明神の名が、筆頭に記されていることに気付きました。
蕪津大明神 ⇒ 賀富良津神 ⇒ かふらつのかみ ⇒ 高良津神 ⇒ 高良玉垂命かと思うのです。
合掌。